日本陶芸界発展にも貢献!陶芸家バーナード・リーチ
バーナード・リーチについて
暖かい季節になってまいりましたね。
先日まで急な気温の変化に振り回され体調を崩された方もおられるのではないでしょうか?実を言いますと、私もその一人です。
急な寒さも落ち着き、過ごしやすい日々を送っていたのですが・・・一生の不覚。
皆様も体調にはくれぐれもお気を付け下さい。独り身には少々堪えます。
前置きが終わったところで本題に入っていきましょう。
本日は、イギリス人陶芸家であるバーナード・リーチについてお話します。
バーナード・リーチの幼少期
当時植民地官僚であったイギリス人の父と母のもとに香港で生まれます。
リーチが生まれて間もなく母が亡くなったため、日本の関西圏に暮らしていた母方の祖父に引き取られますが、父の再婚に伴いその4年後には香港に戻ることになりました。
しばらくすると転勤で父はシンガポールへ、リーチは教育を受けるためにイギリス本土へ渡ったのでした。
日本文化への傾倒
芸術に興味が持ち始め、ロンドン美術学校でエッチング(金属を酸で腐食させて、銅板に絵をかく技術。またそれで刷った版画。腐食銅版画)を学びます。
そして、当時イギリス留学をしていた高村光太郎との出会いがきっかけで、日本の文化に興味を持つようになります。そしてその思いが高まりに高まり、日本に戻ると東京の上野に居住を定めます。
柳宗悦をはじめとする白樺会と知り合い、1917年白樺会の本拠地であった千葉県・我孫子市にて版画指導を行うようになります。
その白樺会では富本憲吉や濱田庄司らも在籍しており、中でも濱田庄司とは特に親しい友人の間柄で、1920年には、イギリスのセントアイブスにて濱田庄司と共に“リーチ・ポタリー”と名付けた日本の伝統的な登り窯を築きます。
そこでは、スリップウェア(ヨーロッパ各地見られた古い陶器。水と粘土を適度に混ぜ合わせた化粧土で装飾する技法)や塩釉といった技法を用いて、西洋と東洋の合作のような作品を次々に制作していきました。
陶芸の地位向上
しかし、当時の西洋人の多くは陶芸を芸術の中では低いものとして見ており、洗練された工業製品に比べて陶芸はお粗末で下手なものといった認識でした。
リーチはイギリス陶芸の評価に落胆し、再び来日すると友人である柳宗悦の目指していた日本民藝館設立に協力することになります。
それらの経験を生かし、リーチは陶芸家としての技術や哲学を記した『A Potter’s Book』(陶工の書)を出版します。
そしてリーチは近代的な物を取り扱うワークショップを運営しつつ、陶芸の認識や地位向上を広めるために世界中を旅しながら作品づくりや陶芸に関する著述を続け、生涯に渡って陶芸の啓蒙活動を続けました。
リーチ亡きあと、今もなおリーチの意志を引き継ぎ、関係者や弟子がリーチ・ポタリーと併設の美術館を支えています。
さいごに