寺島紫明~昭和を生き抜いた日本画家~
寺島紫明について
八光堂鑑定士の高木です。
ここ最近、春とは思えないほど暑くなったかと思えば、急に台風のような風雨に見舞われ・・・本当に忙しい天気ですね。
今日はいかにも春らしい天気で本当に過ごしやすいです。
皆様も体調崩さないようにしてくださいね。
そんな今日は、寺島紫明についてお話させて頂きます。
紫明の生い立ち
寺島紫明は明治25年、木綿問屋の長男として兵庫県明石市に生まれました。
紫明には姉が2人おり、3人兄弟の末っ子として伸び伸びと育っていきます。
幼い頃から文学やスケッチを嗜み、将来は画家へと自然に志していたと言われています。
10代の頃は文学に重きを置いていたようでもありますが、数々の雑誌で賞を取るなど早くも才能が見え隠れしています。この頃には同時に短歌なども嗜んでおり、若い頃からその感性を磨いていたのではないかと思われます。
そして、紫明は親の反対を押し切り画家になるために上京しますが、父親の死去、さらには追うように母親が死去したのを機に文学から絵描きへと本格的にシフトチェンジしていきます。
文学から絵画の世界へ
文学の道から外れ、画家を目指し始めた21歳のとき、美人画家として評価の高い鏑木清方(かぶらききよかた)に師事します。清方に学んだ事で後の寺島紫明の作風に大きく影響を与えたのではないかと思います。
大正期に入ると日展・文展・帝展・親文展などさまざまな展覧会に作品を積極的に出品し、さらには賞も取っていき、徐々に画家としての才能も見出されていきます。しかし主に賞を取ることができるようになったのは30代後半からで、画家としては遅咲きと言えるでしょう。
紫明の作風
紫明が70歳のとき、昭和36年第4回新日展において「舞妓」が文部大臣賞を受賞します。紫明の代表作となる作品です。
この受賞により、伊藤深水と並び美人画が高く評価されます。
晩年は特に「舞妓」をよく描き、様々な角度から女性を描きました。また、素描も数多く描いたとされています。
そのはんなりとした美人画「舞妓」は独特の空気感を感じさせます。
美人画を得意とする師・鏑木清方に学び、文学に深く親しんだ彼だからこそなせる業なのではないかと思います。
紫明の作品を見ると言葉では表現できない「奥行き」を感じるのは私だけではないかと思います。
さいごに