小川芋銭~この銭で芋でも買おう~
小川芋銭について
“河童”と聞くと、みなさんはどの作者を連想されるでしょうか?
文学では芥川龍之介、漫画では水木しげる・・・等々、様々な分野で目にする題材ですが、日本画でも積極的に描いた作家がいます。
小川芋銭(おがわうせん)。現在の茨城県牛久市で活動した日本画家です。
彼は先ほどの通り、河童をよく描きましたので通称、“河童の芋銭”と呼ばれていました。
河童と芋。そして銭。
これらはいったい、どのような因果があったのでしょうか。
芋銭の生い立ち
芋銭は慶應4年、牛久藩の大目付の家で産声を上げました。
その後、明治維新により武士の世が終わると農家に移り、病弱だった芋銭は家業ではなく親戚の商家に預けられ、丁稚奉公を始めます。
しかし、奉公先でも上手くいかず、伯母のもとへ再度預けられ小学校に入学し、その後、洋画家の本多錦吉郎に出会い、初めて絵画の世界に触れます。
錦吉郎のもとで洋画を学んだ芋銭は新聞社に入社し、スケッチや漫画を描きますが、評判は芳しくはありませんでした。
一度郷里に戻り、農業に従事しますが、その頃結婚した奥さんの理解もあり、画家として出発します。
その後、漫画家として地元の新聞社に投稿し、渡辺鼓堂の知遇を得てようやく「芋銭」を名乗り始めました。
“芋銭”とは、絵が売れたお金で芋が買えればいいといった心境からきた名前だそうです。
日本画家としての開花
洋画、漫画と技法を変え、芋銭はここに至って日本画家を目指します。
川端龍子らと珊瑚会を結成し、それまで培ってきた漫画の技法と新しい、日本画の画法を取り入れて独自の作風を生み出し始めます。
画家として成熟してきた頃には旅を始め、福島、富山、長野、新潟など様々な土地を
訪問し、精力的に描きます。
そして、第十二回院展に自身の新境地である作品を出品し、画家、小川芋銭の名を確固たるものにしました。
河童との出会い
牛久に居を構えた芋銭ですが、作品の題材は多種多様で、特に水の魑魅魍魎、その中でもとりわけ河童を多く描きました。
それは牛久市には牛久沼があり、その沼には河童伝説があるそうです。
その伝説から恐らく芋銭は河童のインスピレーションを得たのでしょう。
日本人に馴染み深いキャラクターの河童ですが、芋銭の他にも様々な作家、文化人がその存在に魅了されました。
冒頭にも挙げました芥川龍之介は、小説『河童』を執筆し、自身で河童の絵も描いています。
漫画では水木しげるが『河童の三平』なる作品を執筆しており、こちらはアニメーション映画にもなりました。
河童のルーツ
ここで少し四方山話を。
民俗学者である折口信夫は著書『古代研究』の中で民話や伝承、地形を元に河童とはどういった存在なのかを民俗学的に解析しています。
折口の調査によると、河童はそもそもが水の精霊に似た存在であり、元は海にも生息していたという伝承があるそうです。
どういうことかというと、池や沼は、地下の水脈で海とつながっており、河童はその水脈を使って移動していると考えたそうです。
海というと、日本神話には綿津見彦(わだつみひこ)という神様がいらっしゃいます。
この神様は海の神で、少童命(わたつみのみこと)とも言われ、少年の姿をしている神としてよくイメージされます。
さて、先ほど河童はもともと海に生息していたと述べました。
河でよく見る童のため、漢字をあてて“河童”。しかし、元は海から来ている童。
そして、海の神である童の姿をした綿津見彦。似ていると思いませんか?
一説によると、河童は水神という説もあります。
もしかしたら、河童は綿津見彦の化身なのかもしれませんね。
さいごに
各方面で人気の河童ですが、河童を題材にした作品はどこか人間臭さを持った物が多いです。
前述した芥川の河童は社会も人間社会に似ており、モラル等が少しずれています。
芋銭も多くの河童を描きましたが、おどろおどろしいものもあれば、ポップで人間味のある河童もいます。
そのほとんどはのびのびと自由気ままな河童がほとんどです。
何かと忙しいこの現代社会で、芋銭の河童は一服の清涼剤になるかも知れません・・・。
もし芋銭の作品をお持ちでしたら、八光堂鑑定士一同詳細に拝見させていただきます。
芋銭の足跡や、河童の話とともにのびのびとした時間を過ごしましょう。