【出張買取:茶道具買取】立花大亀 茶掛
立花大亀(たちばなだいき)とは
大阪府堺市に生まれ、大徳寺派南宗寺で得度し、妙心寺専門道場で修行。京都大徳寺塔頭の徳禅寺で住職となります。のちに大徳寺派宗務総長に就任し、以後管長代務や顧問、花園大学学長も務めました。
昭和43年には大徳寺511世住持となり、以後大徳寺の最高顧問となります。その5年後には大徳寺の敷地内に如意庵を復興し、庵主になりました。
また立花大亀は茶道具の制作もしており、落款や印章、印名も非常に多いことでも有名です。「霊山主人」 や「大亀雅」 、「大亀宗雅」 、「如意盦」(「如意庵」)、 「游樫昧」、「遊樫昧」…などの名義を持ち、また文筆家としても活躍していました。
池田勇人元首相をはじめ、福田赳夫元首相、実業家・松下幸之助、イギリスのケインズ経済学者のロイ・ハロッドらとも交流し、禅の教えや日本の“侘び”の思想を伝えるなど幅広い交友がありました。
大徳寺と茶道の関わり
立花大亀が最高顧問を務めた大徳寺は、もともと茶道と関わりの深いお寺です。禅宗の僧侶によって中国の唐、宋の禅文化が日本に伝えられ、そのなかにお茶を嗜む風習がありました。
禅寺での風習は次第に貴族や大名へ広まっていき、堺の商人達を通じて“侘び・寂び”の大衆向けの茶道へと変化し、その後武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休らによって庶民へと伝わっていきました。
この堺の商人達が禅を学ぶきっかけとなったのが、堺の南宋寺に派遣された大林宗套(だいりんそうとう)であり、商人達は禅を学ぶ一方、茶も学んだと言われています。
南宋寺の宗派は臨済宗大徳寺派で、当時は都が京都だったということもあり、京都で茶道が確立されました。それが茶道と大徳寺の関係を強める要因となりました。
立花大亀自身も茶道の造詣が深く、茶道の指導をはじめ茶掛や茶杓などの茶道具も制作しました。そして、茶陶の指導を行った陶芸家の一人である杉本貞光をはじめ、多くの作家の作品にも箱書きなどを残しています。
さいごに