【銀座本店:絵画買取】奥村土牛 リトグラフ
奥村土牛とは
奥村土牛(本名・義三)は明治22年2月18日、東京の京橋鞘町に生まれました。
幼いころから絵を描くことが好きだった土牛は、数えで17の年に本格的な画家修業を始めます。
画家になろうとは考えていなかった土牛ですが、父がとある縁から梶田半古の画塾「半古塾」への入門の段取りをつけてくれたことをきっかけに入塾。半古塾に入れた土牛は大喜びし、毎日脇目もふらずに熱中し、絵以外のことに心動かされることもほとんどありませんでした。
大正6年に初めてのスケッチ集「スケッチ そのをりをり」を出版し、一冊一円500部出版したスケッチ集は完売。落款を“義三”から“土牛”に変えたのもこの時です。
土牛の号は丑年生まれであることと、中国の唐時代の寒山詩「土牛、石田を耕す」より、“牛が石ころの多い荒れ地を根気よく耕しやがては美田に変えるように、お前もたゆまず精進しなさい”との意味を込め、父がつけてくれたそうです。
師・梶田半古、兄弟子・小林古径から手ほどきを受け、修行を重ねた土牛ですが、昭和二年に第14回再興院展にて「胡瓜畑」が初入選します。その後5年続けて入選を果たした土牛は、日本美術院の同人に推挙され、昭和10年には帝国美術大学(現・武蔵野美術大学)の教師となります。その後土牛は文化功労者・文化勲章を受章、作品は政府買上や文部省買上となり、東京都名誉都民、日本美術院では理事長まで務めあげました。
温かい人間味溢れる作品
「私はこれから死ぬまで、初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい。難しいことではあるが、それが念願であり、生きがいだと思っている。芸術に完成はありえない。要はどこまで大きく未完成で終わるかである。余命も少ないが、一日を大切に精進していきたい。」
参考引用:「牛のあゆみ」(出版/東京経済新聞社)
生涯の生きがいと出会い、愚直に努力を重ね、認められ、それでも謙虚にただ毎日を積み重ねていく――。
そんな一生を一体何人の人が送ることが出来るでしょうか。
激動の人生ではないものの、ただただ朴訥にひたすら絵を描き続けた土牛の言葉だからこそ深く心に突き刺さる思いがします。
土牛の絵は温かさ溢れるとても優しい色合いの作品が特徴で、それはまるで土牛の人間性が作品から溢れ出ているかのように感じられます。
まだまだ未熟な私は、とにかく周りの人と自分を比べがちです。
誰かと比べることなく、坦々と自分の道を突き進み続けた土牛の生き様を見習いつつ、生涯現役鑑定士として精進していきたいと思います。
さいごに