【銀座本店:絵画買取】靉嘔 シルクスクリーン
「靉嘔」の誕生
恥ずかしながら初めて彼のことを知った時、「靉嘔(Ay-O)」という名前から中国人作家かと思っていました。
しかし、彼は茨城生まれの日本人作家で、学生時代にはあの「池田満寿夫」や「瑛九」や「岡本太郎」とも交流がありました。
自身の本名・飯島孝雄という名があまり好きではなかったという事から、この頃に「靉嘔」と名乗るようになります。
その由来は、よく描いていた雲にちなみ、雲がたなびくさまを表した「靉靆(あいたい)」の「靉」を取り、また好んで読んでいたというサルトルの小説「嘔吐」から「嘔」を取って「靉嘔」としました。
1953年には「デモクラート美術家協会」に参加するようになります。
「デモクラート美術家協会」とは、これまでの美術団体や画壇の権威主義に対し、芸術・美術への自由と独立の精神を掲げ、活動するために結成された協会です。(「デモクラート」とは民主主義という意味でもあります)
しかし、靉嘔をはじめ、「東京国際版画ビエンナーレ」にて文部大臣賞などを受賞する者が続出し、そもそもの会の主旨とズレが生じてきてしまったため、たった6年で解散してしまいます。
そして1958年、靉嘔は次なる活躍の舞台としてニューヨークへと渡ります。
「虹」の誕生
1958年から2006年までの48年もの間、ニューヨークを拠点に活動していた靉嘔。
最初はだれも知り合いがおらず、英語も話せないという孤立無援の状態で、単身でのニューヨーク生活のスタートをきります。
多くの芸術家たちと出会い、シルクスクリーンなどの新たな技法も学び、靉嘔は確実にステップアップしていきます。
そして1960年代の始め、「フルクサス」という前衛芸術運動に参加しました。
リトアニア生まれの「ジョージ・マチューナス」が主導し、「ハプニング」や「イベント」と呼ばれる身体表現活動を行いました。「フルクサス」とはラテン語で「流れる、なびく、変化する、下剤をかける」という意味で、「厳密な定義を避ける」ために名付けられたそうです。
あの「オノ・ヨーコ」も参加していたことで有名ですね。
そういった活動を経て、1962年遂にお馴染みの「虹」の作品が誕生しました。
きっかけとしては、個展への出品でアトリエが空っぽになり、何をしようかと考えたところで虹を描くことを思いついたそうです。
さいごに
「虹の向こうに、夢が叶う場所がある」と唄った曲が、確かありましたが、
靉嘔はその「虹」を描くことで夢を叶えたといえるのではないでしょうか。
現実の「虹」は雨粒に反射した太陽の光によって作り出されるそうです。多くの偶然が重ならなければ見ることが出来ないのが「虹」ですが、靉嘔の「虹」も多くの偶然の果てに今我々の目に映っています。
その奇跡と軌跡に感謝しつつ、より多くの「虹」をこの目に焼き付けていきたいものです。