【富山店:陶器買取】青木木米 鉢
青木木米と文人文化
青木木米は、京都祇園の富裕な茶屋であった「木屋」に生まれました。青木家の祖先は尾張の藩士と伝わっています。
彼が生きた江戸時代中期から後期にかけては、黄檗宗(おうばくしゅう。中国の黄檗宗万福寺から伝来した宗派とされる)などの中国文化が流入し、中国趣味に依拠した文人文化が日本に於いて興隆します。京都祇園は文化の集積地であったため、木米は文人文化にどっぷり浸って育ちました。また、若年の頃から儒学者である高芙蓉に学び、篆刻や書画を嗜むようになります。さらに、木米は青銅器や古銭をも楽しみ、鋳金技術を習得していたといわれています。
同時期、大阪には浪速の知の巨人と称される木村蒹葭堂(きむらけんかどう)がいました。彼は文学、博物学、黄檗宗に通じ、煎茶や書画などの文人趣味に広い知識を持っており、同時に関連書籍や標本、骨董品などのコレクションを有していました。彼の知識やコレクションに触れようと全国から訪問者があり、『蒹葭堂日記』には9万人程の記録が載っているとされます。
青木木米は画家であった中村芳中(なかむらほうちゅう)の紹介によって蒹葭堂の知遇を得ます。そして、蒹葭堂の元で中国清時代に朱笠亭(しゅりゅうてい)が著した『陶説』に感銘を受け、陶芸へ注力していきます。
青木木米の芸術
木米は建仁寺の陶芸家、奥田頴川(おくだえいせん)のもとで京焼の技術を学ぶと、京都の粟田口で30歳の頃に独立、開窯しました。その8年後、文化2年(1805)には青蓮門院粟田御所の御用焼物師となり、その翌年には加賀に招かれて3年間九谷焼の再興に尽力します。現在でも九谷焼の伝統的な様式の中には、「木米」と呼ばれる明代古赤絵の様式に範をとる濃密な赤絵があり、木米の影響の大きさをうかがえます。
文人文化に欠かせない煎茶を好んでいた木米は、煎茶器に特に力を入れます。唐物を手本に独創的な工夫を加えた木米の作品は広く好まれ、木米は自由闊達に青磁・白磁・染付・交趾・色絵・南蛮写しなど幅広い作風を遺しました。
青木木米の染付の作品には国宝に指定される物もあり、現在でも非常に評価が高いです。また、木米は文人画家としても高名であり、頼山陽や田能村竹田と交流があったと言われています。木米は日本の陶芸史、絵画史の双方に大きな足跡を遺した巨人だったと言えるのです。