【大阪本店:茶道具買取】宮崎寒雉 茶釜
宮崎寒雉の生い立ち
初代の宮崎寒雉(みやざき かんち)は江戸時代中期に能登に生まれました。宮崎家は代々能登の中でも鋳物業が盛んな中居にて鋳物を作る職人の家であり、主に武具などを製作していましたが、鋳物師としての腕を見込まれ、天正9年に加賀藩藩主である前田家から金沢へと呼ばれ、そこで茶道具などを作り始めます。
釜作りの師は、江戸時代初期からの釜師である大西浄清と言われていますが、諸説あり、名越昌高、三昌浄味、大西定林なども名前が挙げられています。寒雉は京都で釜作りを習った後、金沢に戻ると前田家の御用釜師として仕えることとなりました。
初代宮崎寒雉は八十余歳で没するという当時としては異例の長命でしたが、男子が生まれなかったため、同じ釜師である辻与次郎の孫を養子として迎え、家業を継ぐこととなりました。現在でも14代目宮崎寒雉が裏千家の釜師として活躍しています。
宮崎寒雉の作風
茶釜にはさまざまな種類がありますが、寒雉も柏葉釜や乙御前釜、大講堂釜などあらゆる釜の形式を製作しました。基本的な作風は師である大西浄清を受け継ぎ、青みを帯びたもの・薄作ですっきりとしたもの・砂肌で総じて細やかな造りのものが多いです。
また、茶釜のみならず、寒雉の製作した仏具類も多く残されており、梵鐘や三具足なども金沢近辺の寺に現存しています。
代表作のひとつでもある「焼飯釜」は上から見ると三角の形をしており、まさにおむすびのような形状をしています。これは寒雉が釜作りの指導を受けた千利休の曾孫である仙叟宗室と出かけ、彼がおむすびを誤って落とした際に、「この釜を(落としたおむすびの代わりに)愛せば飢えることがない」といったことから製作した釜だと言われています。独創的な形のみならず、その発想がとても面白いですね。
宮崎寒雉の名を継いだ14代目は様々な逸品を生み出した寒雉の作風を受け継いでおり、現代でもなお高い評価を受けています。
茶釜は茶道をしない方にとっては馴染みの薄いものかもしれませんが、見た目ひとつとっても魅力的であり、骨董品として楽しまれる方もいます。金沢で生まれて脈々と伝えられてきた寒雉の作品は、茶の文化と共に末永く愛され続けていくことでしょう。