【銀座本店:茶道具買取】坂高麗左衛門 額皿
突然ですが、皆さんは“一楽 二萩 三唐津”という言葉を聞いたことはありますか??
茶道具がお好きな方であれば、一度は耳にしたことがあるかと思います。
この言葉は茶陶の格付けを表しており、萩焼がお茶の世界で名陶であることを教えてくれます。
このような、名物といわれるモノの多くが伝統やロマンを内包していますが、果たして萩焼にはどんな物語があるのでしょうか…?
そして、今回ご紹介する坂高麗左衛門は、この萩焼の物語に大きく関わってきます。
萩焼の興り
今から400年以上前、安土桃山時代に豊臣秀吉が朝鮮を相手に引き起こした戦争「文禄・慶長の役」の折、秀吉の家臣である西国大名たちは、多くの挑戦人陶工を日本へ連れ帰りました。
当時、茶の湯は権力者たちの間で隆盛を極め、そこで使われる道具はステータス的な存在でした。
なかでも、朝鮮で作られた「高麗茶碗」は日本国内で非常に評価が高く、朝鮮人陶工にそれと同等の茶陶を作らせようとしたのかもしれません。
この時流に乗るべく、大名 毛利輝元公も朝鮮人陶工 李勺光・李敬の2人兄弟を日本へ召致し、のちに萩(山口県)の松本村に長州藩の御用窯を開きます。
そして、この松本村で作られた「松本焼」と、のちに深川村で作られた「深川焼」が、明治以降に「萩焼」と呼ばれるようになったといわれています。
また、朝鮮人陶工 李敬は「坂 助八」へ改名後、二代藩主 綱広公より「高麗左衛門」の名を賜り、初代・坂高麗左衛門として作陶にあたりました。
ここから、坂高麗左衛門家の400年以上の歴史が始まったのです。
それはそうと…
萩焼の茶碗と聞いて、皆さんはどのような見た目を思い浮かべますか??
粗い土によってできるゴツゴツとした肌、どっぷりとかけられた白釉、割高台…思い浮かべるイメージは、皆さんそれぞれ異なるかと思います。
それは、萩焼が多くの特徴を持っているためです。
では、なぜそれだけ多くの特徴があるのか。
それは、「御用窯が藩主の好みに合わせて作風を変えた」ことにあります。
高麗茶碗が好まれた時代には、枇杷色の井戸茶碗、伊羅保茶碗などを作り、楽茶碗などの今焼が好まれた時代には、歪んだ形、白釉などで「侘び」を表現しました。
また、明治維新による廃藩以後、萩焼の作風はさらに広がりを見せます。
当時、藩の御用窯であった窯は、それまでは藩に作品を納めることで生活していましたが、廃藩によって御用窯の任を解かれた後は、商売として萩焼を売っていかねばならず、苦難の時期を過ごしました。
しかし、萩焼の伝統を守るべく、坂高麗左衛門窯、三輪休雪窯を筆頭に諸窯は新たな作風を展開し、今日の私たちが持つ萩焼のイメージを築きます。
坂高麗左衛門は、12代熊峰が東京藝術大学にて日本画を専攻しており、絵付けを作品に施すことで新たなスタイルを確立しました。
それまでの萩焼は、土質や釉薬による色味や、形状に変化をつける表現に留まっていましたが、絵付けによって作風の幅を広げ、今までにない優美さ、華やかさで人々を魅了しました。
特に、陶筥(とうばこ)への絵付けは実に見事で、茶碗よりも大きな“キャンバス”に描かれる絵は、日本画そのものです。
坂家歴代の作品、そのどれをとっても美しさを内包していますが、やはり12代の絵付けは見た人に強烈な印象を残します。
こうして、坂高麗左衛門は萩焼の伝統保持のために革新を試み、400年以上経った今日も、その名を世に轟かせています。
陶器の売れにくい現代ではありますが、度重なる苦難を乗り越えた坂窯だからこそ、また萩焼に革新をもたらすかもしれない…!そんな期待を勝手に抱いております。
また、窯を若くして継がれた現当主・坂 悠太さんにも注目です!!!