【大丸梅田店:陶器買取】富本憲吉 飾皿
奈良から東京、そしてロンドンへ
富本憲吉は1886年、奈良県生駒郡安堵村に生を享けました。
実家は旧家の大地主であり、富本家長男の憲吉は父、豊吉の死により11歳にして家督を継ぐことになります。
18歳になった憲吉は東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)図案科に進学。
図案科で建築や室内装飾を専攻し、英国人ウィリアム・モリスの影響もあり在学中にロンドンへ私費留学します。留学中は毎日ヴィクトリア&アルバート美術館に通い、所蔵品のスケッチを行っていたそうです。
大和時代、生涯の友人リーチとの出会い
1910年にイギリスから帰国後、憲吉は英国人のバーナード・リーチと出会います。
リーチとの交流から陶芸に目覚めた憲吉は、楽焼に熱中していきます。作陶の技術は全て独学で身に着けたと言われており、信楽・瀬戸・朝鮮半島などの窯場に足を運び研究に励んでいたそう。
1915年には故郷の奈良に自ら窯を築き、より一層創作活動に励むようになります。
この大和時代の作風としては、憲吉作品の代表的な形とも言える“ひょうたん”のような、胴が緩やかな曲線を描いた首が短い白磁の壺が特徴的です。
一方、面取りと呼ばれる表面を削って多面体にする技法を用いた作品にも挑戦しています。
東京時代~京都時代
1926年に奈良から東京に移住し、新たに窯を築きます。この東京時代から本格的に代名詞でもある色絵磁器の制作に励むようになります。
住まいを構える世田谷祖師谷周辺の草木などの自然の風物を題材にして、呉須(ごす)と呼ばれる青藍色の顔料で描いた作品や、憲吉自ら生み出したトレードマークでもある「四弁花模様」を使った作品を作り始めます。
この四弁花模様は、憲吉の自宅に咲いた定家葛(ていかかずら)をモデルにしたと言われています。しかし、日本古来の五弁花模様でなく、四弁花を用いたのには理由がありました。
その理由は単純で、四弁花模様の方が四角くすっきりとしており、磁器全面に描いた際にまとまりが良くなるからです。確かにこの四弁花模様であれば、磁器に連続して描かれていても締まって見えますよね。以後、この四弁花模様は憲吉のトレードマークとなります。
こうして、東京時代に憲吉の特徴的な色絵技術が確立されたと言えるでしょう。
終戦後は、家族と別れ京都へ移ります。(以後、京都時代)のち京都市立美術大学教授に就任し、後進の教育にも力を入れます。
京都時代には、かの有名な羊歯模様を金銀彩で描いた独特な作品が生まれました。また、金彩と銀彩を従来の色絵磁器に施す技法も確立しました。
金と銀では融点が異なるため、同時に焼き付けるのはとても難しいと言われています。そこで憲吉は銀に金を混ぜ、さらに色味を銀にするためプラチナも混ぜることで答えを見出しました。
1955年にはついに色絵磁器が公に認められる形となり、重要無形文化財(人間国宝)に認定されます。その後1961年には文化勲章も受賞します。
こうして富本憲吉は、数少ない陶芸分野の人間国宝作家として認められることになりました。