パリ画壇を席巻した日本人画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品とは?日本画と西洋画が融合した技法の魅力
藤田嗣治(つぐはる)は第二次世界大戦以前にフランスで成功した日本人画家です。26歳のときパリへ渡り、「乳白色の肌」という藤田独自の画風で、一躍パリ画壇の寵児となりました。晩年にフランス国籍を取得し、キリスト教の洗礼を受け「レオナール・フジタ」と名乗るようになります。
おかっぱ頭にロイドメガネといったスタイルで知られ、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーなどさまざまな画家と交流しながら独自の絵のスタイルを確立しました。2018年には没後50年の回顧展が日本各地で開かれるなど、今でも評価される画家です。
この記事では、藤田嗣治のプロフィールや作風・作品の魅力などについてご紹介します。
パリ画壇での人気と日本での冷遇。画家・藤田嗣治のプロフィールとは?
▲藤田嗣治が暮らしたパリの街並み
名家に生まれた藤田嗣治。幼少時から才覚を現し、黒田清輝に師事
画家・藤田嗣治は1886年、明治半ばの東京生まれ。父親はのちに陸軍軍医総監となるなど名家に生まれた藤田。中学校の頃にはパリ万国博覧会(※)に水彩画が出品されるなど美術の才能に秀で、藤田は画家を志すようになります。
東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。黒田清輝(※)から印象派(※)風の古典的な絵画の技法を学びます。
フランスの首都パリで開催された国際博覧会。1855年の初回から複数回開催されている。(※)黒田清輝
東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した日本の洋画家。(※)印象派
1860年代半ばにフランスで起きた芸術運動、またはこの芸術運動の中核を担った画家達を指す。名前の由来は、港の早朝を描いたモネの「印象・日の出」。描く対象を照らす光や空気の変化を正確にとらえようとした作風が特徴で、以後の芸術全般に大きな影響を与えた。
パリ留学後、スタイルを模索した藤田嗣治。パリ画壇で一躍有名に
1913年には父親からの資金援助で単身フランス・パリに渡りますが、日本で学んだ印象派の画風は当時のパリでは主流ではなく、衝撃を受けます。
藤田はパリ・モンパルナスに暮らしながら自分の絵のスタイルを模索。日本風の様式美・非写実的な作風と、西洋の写実主義を融合した「乳白色の肌」の独自の画風を確立。藤田はパブロ・ピカソなど多くの画家と交流を深め、第2回の個展以降、1920年代のパリ画壇で人気作家に。女性や猫をモチーフにした作品を多く残します。
ロイドメガネにおかっぱ頭という藤田のトレードマークともいえる髪型はもともと生活に困窮していたときにやむを得ず自分でカットしたことから始まりましたが、仮装してパフォーマンスをするなど陽気な性格で画壇の仲間内でも人気者になっていきました。
戦後は戦争画で非難を受け、フランスに戻りレオノール・フジタを名乗る
1929年に藤田は帰国。1933年から日本に拠点を置き、中南米などを旅して精力的に制作。第二次世界大戦、太平洋戦争が始まるとおかっぱ頭を丸刈りにして戦線の記録を絵画に残す「作戦記録画」の制作に没頭します。
しかし、戦後は戦争画を描いたことで周囲から冷遇を受け、藤田はフランスに戻り、キリスト教の洗礼を受けフランス国籍を取得。後年は「レオノール・フジタ」と名乗りました。晩年はキリスト教の宗教画の制作やノートル=ダム・ド・ラ・ぺ礼拝堂の建設に関わり、1968年に亡くなりました。
西洋と東洋の融合により生まれた「乳白色の肌」。画家・藤田嗣治作品の特長とは?
きめ細やかな肌を表現する「乳白色の肌」
日本で教わった印象派の画風ではパリで通用しないと悟り、藤田は独自の画風を模索しました。その末に編み出したのが藤田嗣治作品の一番の特長である「乳白色の肌」と呼ばれる、独特の技法。きめ細やかな肌と繊細な描線を表現するため、下地として白い絵の具にベビーパウダーを混ぜて塗ったとされています。
藤田はそのためにキャンバスを手作りしたともいわれています。半光沢・油性の乳白色の上に、日本の「面相筆」で墨を使って描く黒い輪郭線はまさに西洋と東洋の融合といえる技法です。
西洋と東洋の文化を融合させた優美な質感
藤田嗣治は、モチーフとして裸婦や猫の作品を好んで選びました。藤田は日本の浮世絵師、鈴木春信、喜多川歌麿をヒントに、骨格などよりも肌の美しさを優先し、西洋画の手法で裸婦を美しく表現しようとしました。しっとりとしていて滑らか、かつ触覚にも訴えかける質感のある「乳白色の肌」。
東洋の絵画に見える紙や絹のような優美な質感を油絵で再現した藤田の作風は、当時のパリ画壇に衝撃を与え、高く評価されました。晩年、フランスに帰国し洗礼を受けたあとは聖母マリアなどをモチーフにした宗教画や仕事に従事する子どもたちをテーマにした扉絵などを残しています。
世界的に高く評価される画家・藤田嗣治の作品
▲藤田嗣治の作品「少女」
「乳白色の肌」はフランスで高い評価を得る
藤田嗣治は1919年、毎年秋にパリで開催される新進美術家の展覧会サロン・ドートンヌ(※)に入選。既にこの頃「乳白色の肌」の技法を確立させていた藤田の油絵は高く評価され、1921年にはサロン・ドートンヌの審査員に選ばれるようにもなりました。
毎年秋にフランス・パリで開催される美術展覧会。前衛芸術や新進芸術家の紹介に積極的であることで有名。「秋のサロン」「秋季展」を意味する。
120万ドルでの落札も。買取市場でも人気の藤田嗣治作品
1922年の作品「裸婦」で藤田は「エコール・ド・パリ」と呼ばれる当時のパリ派の画家として広く知られるようになり、フランスやドイツから勲章を贈られるなど、ヨーロッパの画壇をはじめ世界的に高い評価を得ていきます。この「裸婦」は2013年のクリスティーズオークションで120万ドルで落札されました。
その他にも「カフェにて」「少女」など多数の代表作を残している藤田。1934年には銀座で個展を開くなど、日本に帰国後も評価されていきます。2018年には没後50年を記念した回顧展も各地で開かれるなど、根強い人気の画家です。
洋画買取 藤田嗣治
画家・藤田嗣治の作品紹介
「白い猫」
木版 33×45cm
藤田嗣治といえば「乳白色の肌」と並び「猫」といわれるほど、猫の作品は今も不動の人気です。藤田の描く猫の愛らしさは、藤田ファンならずとも猫好きにも支持される所以です。
「カフェにて」
1949年制作の藤田嗣治の代表作。黒いドレスを着た着衣の女性がモチーフですが、ここにも「乳白色の肌」の技法が使われています。カフェにて」はいくつかバージョンがあり、その違いは背景の建物に描かれた文字。ー藤田の最後の妻・君代の洗礼名「クレール」、もしくは4人目の妻「マドレーヌ」の名前が描かれる違いがあります。現在はポンピドゥー・センター(フランス・パリ)などに所蔵されています。
(注)こちらは絵画ではなく、ロイヤルコペンハーゲン(※)とのコラボレーション作品「アート・ポーセリン」シリーズの陶板画となります。
(※)ロイヤルコペンハーゲン
デンマークの陶磁器ブランド。1775年に当時のデンマーク国王の保護のもと『王立デンマーク磁器製作所』として開窯。
「少女」
木版 57×26cm
ぱっと見た限りではただの黒一色の木版画に見えるものの、実際は20色にもおよぶさまざまなトーンの黒色で刷られています。藤田は少女をテーマにした作品が多く、その純真無垢な姿を描き続けることで宗教画と通ずる「神聖さ」を表現していたのかもしれません。
まとめ
明治期に日本人画家としては随一、独自の技法「乳白色の肌」でパリ画壇において高い評価を受けた藤田嗣治。戦後は戦争画などの責任を追及され、フランスに帰国しますがその後は「レオナール・フジタ」としてキリスト教をモチーフにした作品を多く残しました。
没後50年の2018年の回顧展などでも再評価された藤田嗣治。汚れやキズなどが多少あったとしても、作品によっては高値で取引されています。藤田嗣治の作品の買取を検討している方は、ぜひご相談ください。
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