静止した刻など人気作品が多数。「人間とは何か」を問うた洋画家”鴨居玲”
深い闇を思い起こさせる色彩感覚と、魂を内側からえぐり出すような激しいタッチ。一度見たら忘れられないほどのインパクトを見る者に与えるのが、戦後に活躍した洋画家・鴨居玲の絵画です。
誰しもを魅了してしまうほどの美男子で明るく優しい性格をしていたという鴨居玲ですが、一方で、自己の深淵を厳しく見つめ続け、「命とは、人生とは」を自問自答し続けた人でもありました。
そして彼は自身の内なる叫びを絵画に表現し続けました。そんな彼の作品だからこそ、没後現在も多くの人を魅了しているのでしょう。この記事では、洋画家・鴨井玲のプロフィールや作風・主要作品などについてご紹介します。
国内外で活躍。「人間とは何か?」を問うた、鴨居玲のプロフィール
▲鴨居玲が愛し、人々を描き続けたスペインの街並み
洋画家・宮本三郎に学んだ学生時代
鴨居玲の出身については謎が多く、石川県金沢市または大阪市高槻市という説があります。生まれ年は1928年とされていますが、確かなことはわかっていません。この理由は出生届が出されていなかったためと言われています。
そんな鴨居玲が画家への道を歩み始めたのは、1946年のこと。金沢市立金沢美術工芸学校に入学し、洋画家の宮本三郎(※)に師事します。卒業後は関西に移り、宮本三郎が創設した二紀会を中心に作品を発表します。また、画家として生計を立てるべく、兵庫県芦屋の田中千代服飾学園にて講師として勤め始めます。
太平洋戦争に従軍画家として参加し、帝国芸術院賞を受けた石川県生まれの洋画家。優れた戦争記録画を多数残し、晩年は舞子や娼婦などを描いた。
国外での活動を経て帰国。41歳で脚光を浴びる
その後、鴨居は1959年頃にフランスに渡り、創作活動に専念します。しかし、なかなか思うような評価は得られず、行き詰まった彼はヨーロッパやブラジルなどさまざまな国を転々としました。その後1965年に帰国。1968年に日動画廊で初の個展を開きました。
不遇の時代が長かった鴨居玲に転機があらわれたのは1969年、41歳の時でした。昭和会展(※)優秀賞と安井賞(※)を受賞し、以降一躍知られる存在となったのです。
日動画廊が主催する「洋画家・日本画家・彫刻家」を対象にした展覧会。洋画界で重要な展覧会のひとつ。(※)安井賞
新人洋画家の登竜門。画壇の芥川賞とも言われる。
再び国外へ。晩年は神戸でアトリエを開く
彼の創作活動への飽きたらぬ思いは、彼を新天地へと駆り立てました。1971年にスペイン・バルデベーニャスに移り、アトリエを構えます。鴨居はそこでの暮らしや村人たちとの触れ合いの中で、酔っ払いや老婆などを題材とした人物画を多数制作しました。
その後、鴨居はフランスに戻り、パリやニューヨークなどで個展を開きます。そして1977年に帰国、神戸にアトリエを構えました。当時の彼は画家として世界的に評価され、傍目には画家として充実した日々を送っているように見えたはずです。しかし、彼の心のうちは決して明るくはありませんでした。
画家としてのプレッシャーに加え、創作を行う中で膨らんでいく葛藤や絶望。この頃に描かれたおびただしい数の自画像からは、彼の心の内が伺い知れます。
得も言われぬインパクトを残す、鴨居玲の作品の特長
▲鴨居 玲がアトリエを構えたスペインの街並み
混沌・葛藤・苦悩が垣間見える鴨井玲の作品
そのおどろおどろしい作風からは想像できないほど、彼自身は人目を引くほどの美男子で、性格も明るくユーモアのセンスに溢れる人だったと言われています。その一方で、創作活動においては生と死を真摯に見つめ、その思いをキャンバスにぶつけていました。若い頃の作品には風景画や抽象画・人物画が多く、静かなタッチの中に混沌と葛藤、苦悩が垣間見えます。
人間の弱さ・脆さ・醜さを表現。狂気をはらんだ濃厚な人物画
彼の代名詞とも言える人物画が増え始めたのは、スペインにアトリエを構える1971年より少し前から。老人や酔っ払いなどを題材に、人間の弱さや脆さ・醜さを暗く濃厚な色遣いと独特の表情で描き、美醜を超えた表現を確立しました。
ヨーロッパから帰国し神戸にアトリエを構えてからは、「1982年 私」をはじめ、自画像を数多く制作しました。この頃の彼は精神状態が悪化し、自殺未遂を幾度となく繰り返しています。それにともない、絵のタッチにも葛藤や混沌・狂気が色濃くにじむように。「絵は私にとって苦痛そのものだ」と語っていたとも言われています。
また、鴨居玲の作品の礎となっているのは、その確かなデッサン力だと言えます。彼は一枚の絵を描く前に、毎回100枚ものデッサンを行い、その後一気に作品を描き上げるスタイルをとっていました。ひとたび制作を始めると、寝食も忘れて没頭したと言われています。
海外でも根強い人気。現代における鴨井玲の評価
国内外で高い評価を得る鴨井玲の作品
鴨居玲は不遇の時代が長い作家でした。1969年41歳にして、「静止した刻」で日動画廊の昭和会展優秀賞と安井賞をダブル受賞、これをきっかけに美術界に一気に名が知られることとなります。スペインでの生活を経てフランスに拠点を移してからは、パリのテレビに出演するなど人気を博しました。
後に大統領となったフランソワ・ミッテランも彼の作品を購入するほどでした。芸術やアートに造詣が深い人だけでなく、一般の方々にも知れ渡るほどの高い人気を獲得しました。
時を超えて愛される鴨井玲の作品。買取査定でも高額で取引される
鴨井玲は没後5年から、5年ごとに各地の美術館で回顧展が開かれています。通常は作家の出身地の美術館が回顧展を一度行うのが普通で、このようなことは極めて稀。生前の彼を知らない世代にも、彼の生き様や作品に魅了されたファンが多数いるという証なのでしょう。
2015年には没後30年記念展が開催され、北海道立函館美術館・石川県立美術館・伊丹市立美術館に巡回されています。鴨井玲の作品群は、時を超えて国内外の多くの人々から高い評価を得ており、買取査定において高額がつくこともめずらしくありません。
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鴨居玲の作品紹介
「化粧」
制作年不明 油彩 P20号
晩年の作品。老人や酔っ払いなどをモチーフに描き、彼らの孤独・不安などの悲哀に満ちた生き様を真正面から描き、また彼らに自己投影しながら作品を描き続けたと言われています。
「花と白い壁」
1961年制作 油彩 69×34.5cm
具象画に目覚め、具象画家として作風を確立していく時期の作品。
「モンマルトル風景」
1969年制作 水彩 H42×W55.5cm
パリにある一番高い丘から挑む景色は絶景で、モネやゴッホ、ピカソなどの錚々たる画家がアトリエを構えていた場所としても有名。下町情緒溢れる街並みを明るいタッチで描いた画は、まるで受賞し称賛を受けた鴨居の充実した心の内面を描き表しているかのよう。
この他、前述した自画像「1982年 私」、鮮烈な赤が印象的な「出を待つ(道化師)」、安井賞を受賞した作品「静止した刻」などが鴨井玲の代表作として挙げられます。ここでご紹介した作品はほんの一部で、鴨井玲は洋画家としてのキャリアを通しておびただしい数の作品を残しています。
まとめ
生と死を真摯に見つめ、自身の内なる葛藤をキャンバスにぶつけ続けた鴨居玲。美醜を超えた人間の真実の姿をとらえた彼の作品は、今なお私たちを魅了し続けます。
現代でも定期的に展覧会が開催される鴨井玲は、時を超えて愛される洋画家。キズや汚れがついた作品でも、作品によっては高額査定が可能です。鴨井玲の作品の買取を検討しているという方は、ぜひ一度ご相談ください。
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