運命に翻弄された狂気の天才画家・青木繁の生涯と作品の魅力とは?
西洋画が日本に伝来して間もない明治時代に活動した洋画家・青木繁。
若くして代表作「海の幸」で評価を得たものの、生前は大きな名声を得ることはなく、失意の放浪の末に肺を患い、わずか28歳という若さでその人生に幕を下ろしました。
しかし、洋画の手法を用いて日本の神話を描いた彼の作品は、没後大きく評価されることとなり、代表作「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」は、重要文化財に指定されるほどの高い評価を得ています。現在ではその作品が教科書にも載るほど、明治時代の代表的な洋画家として位置付けられています。
この記事では、そんな青木繁のプロフィールや作品の特長、評価などに関して詳しくご紹介します。
28歳でこの世を去った若き天才。青木繁のプロフィール
▲青木繁が生まれた福岡県久留米市の街並み
明治・大正時代の絵画の重鎮に師事。天才と評された青木繁
青木繁は、1884年福岡県久留米市に武士の息子として生まれました。厳格な父のもとに育った青木にとっては、絵を描くことが息抜きだったと伝えられています。
その後、16歳で学校を中退して上京、小山正太郎(※)の画塾「不同社」に入門します。翌年、東京美術学校(現・東京藝術大学)の西洋画科に入学。洋画界の重鎮・黒田清輝(※)に師事し、ヨーロッパの最新絵画を学びました。
その才能は早くから開花し、在学中の1903年に作成した「神話画稿」で白馬会第8回展の白馬賞を受賞。若き天才として注目を集めます。
洋画家。東京高等師範学校で教師を務めながら私塾を開き、後進の育成に尽力。(※)黒田清輝
東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した日本の洋画家。
画壇との関係が悪化し、不遇の20代を過ごす
1904年には、22歳にして「海の幸」を制作。同年の白馬会第9展に出品され、高い評価を得ました。この作品は後に青木の代表作として知られ、日本の洋画で初めて重要文化財に指定されることとなります。
また1907年には、こちらも後に重要文化財に指定される「わだつみのいろこの宮」を発表。東京府勧業博覧会(※)に出品し、好評を博します。しかし、予想に相反して三等末席という結果に。青木は若くしてその才能を認められていましたが、その背景には、青木自身の傍若無人な振る舞いや激しい性格が災いして、画壇から冷遇されていたと言われています。青木はこの結果に憤慨し、審査員たちを痛烈に批判しました。
1907年に開催された大規模な展覧会。当時の東京府が主催して開催。
28歳で他界。失意のままその生涯に幕を閉じる
その後、青木は父の危篤の報を受けて郷里の九州・久留米に帰省。しかし、家族との生活はうまくいきませんでした。生活苦と創作の悩み・画壇の無理解に苦しんだ青木は、失意の中、九州を放浪します。
中央画壇への復帰を画策しますが、肺炎により入院。翌年わずか28歳でこの世を去りました。青木の作品が大きな評価を得るようになったのは、没後しばらく経ってのことでした。
古事記の世界にインスパイアされた?青木繁の作品の特長とは?
▲青木繁が学んだ東京美術学校(現在の東京藝術大学)
19世紀中期「ラファエル前派」の作品群から大きな影響を受ける
東京美術学校・西洋画科で洋画界の重鎮・黒田清輝に師事した青木繁は、イギリスのラファエル前派(※)の画家たちに大きな影響を受けました。なかでもエドワード・バーン・ジョーンズ(※)に心酔。代表作「海の幸」の横長の画面はバーン・ジョーンズの影響とされています。
19世紀の中期、ヴィクトリア朝のイギリスで活動した美術家や批評家からなるグループのこと。美術作品としては明暗が弱く明るい画面。鮮やかな色彩・細密な描写などの特色がある。(※)エドワード・バーン・ジョーンズ
イギリスの美術家で、ラファエル前派をイギリス画壇の主流に押し上げるなど、ラファエル前派と密な関係を築いたデザイナー。美術家として、美しい芸術作品を作り上げたことでも知られている。
「古事記」の世界観にインスパイアされた作品群
青木繁は、美術学校時代には、読書にも熱中し世界の神話を読み漁ったといわれています。その影響は創作にも現れており、古代神話をモチーフとした作品を多く描いています。中でも青木繁が魅了されたのは、「古事記」の世界でした。彼の代表作のひとつ「わだつみのいろこの宮」は、古事記の世界観を表現しています。古代日本の神話を洋画の技法で表現する手法は、今見てもなお新鮮に映ります。
独創的な作品の土台にある、豊かな想像力とデッサン力
そんな青木繁の画風の礎となっているのは、豊かな想像力とそれを表現しうる確かなデッサン力だと言えるでしょう。代表作「海の幸」では、漁を終えて帰路に着く漁師たちの姿が描かれています。漁師たちの生命力を臨場感たっぷり表現した作品ですが、実は青木自身がこの光景を見て描いたわけなく、友人の坂本繁二郎が目にした漁師たちの光景を聞いて、青木が想像だけで描き上げたものだと言われています。
友人たちの尽力により死後評価が高まる。青木繁・作品の評価
夏目漱石が天才と絶賛。死後に評価が高まった青木繫
若くして大きな注目を集めるものの世間的な評価を得ることなく、わずか28歳でこの世を去った青木繁。その評価が高まったのは、彼の死後のことでした。
その才能を惜しんだ友人たちによって彼の遺作展が開催され、その展覧会を見た夏目漱石は青木のことを「天才」と絶賛したと言われています。そして、その評伝が戦後になって刊行され、青木の評価を高める要因になったのでした。
明治時代を代表する作家としての地位を築く
代表作である「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」は後に重要文化財に指定。現在では明治時代を代表する洋画家のひとりとして、その作品が教科書にも載っています。
また、2011年には没後100年の回顧展が東京都のブリヂストン美術館で開催。伝説に彩られた青木繁の生涯と芸術を振り返るこの展覧会には多くの人が訪れ、彼の評価を高めることとなりました。
回顧展にも多くの人が訪れたことからもわかるように、現代でも青木繫作品は多くの人に愛されています。買取市場でも高く評価されており、高値で取引されることも珍しくありません。
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青木繁の作品紹介
「海」
リトグラフ 36×71.5cm
生涯を通じて描いた海の一作。ラファエル前派や印象派の影響を受けた画風は「海のたおやかさとそれでいて荒々しさを表現しているよう」と評されています。
「温泉」
リトグラフ 71×36.5cm
浴室にて髪を梳く女性は神秘的な雰囲気をまとい、どこか宗教画のようにも。古事記などの日本神話にも造詣が深い青木ならではの裸婦像だと言えます。
まとめ
「夭折した天才」と評される、洋画家・青木繁。その作品の特長は、その確かな画力と豊かな想像力、そして、それらを表現しうる独創的なアプローチにあると言えるでしょう。西洋画の技術を用いて日本神話を描いた作品は、まさに唯一無二。
死後に評価が高まり、現代では教科書でも紹介されるほど、不動の地位を築いた青木繁。その作品は買取市場でも高く評価されており、キズや汚れがついた作品であっても、高値で取引が期待できます。青木繁の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
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