パリに生き、パリを愛した西洋画家。風景の中に人々の生命力を表現した荻須高徳の世界
第二次世界大戦終戦後、日本人画家として初めてフランス滞在を許されパリへ渡った萩須高徳。生涯を通じてパリを拠点に絵画の制作を行った彼は、フランスで最も知名度のある日本人画家のひとりです。
パリの日常風景や街並を描きつつ、そこに暮らす人々の息遣いまでをも表現した作品は、日本国内やフランスだけでなくヨーロッパでも高く評価されています。また、海外に散逸していた「松方コレクション」の日本へ寄贈返還に貢献したりするなど、日本とフランスの文化交流にも尽力したことでも知られています。
この記事では、そんな萩須高徳のプロフィール・作品の特長・評価などについて詳しくご紹介します。
パリに愛された日本人画家、荻須高徳のプロフィールとは?
▲戦後初めて日本人画家としてフランス滞在を許され、パリの美しい街並みを描き続けた
藤島武二に学び、盟友達と技術を研磨
萩須高徳は、1901年に愛知県中島郡千代田村(現在の愛知県稲荷沢市)に生まれました。小学校・中学校を地元で過ごした後、1921に東京美術学校(現・東京藝術大学)受験のため上京し、川端画学校(※)に進学、そこで藤島武二(※)の指導を受けました。
翌年1922年には、東京美術学校西洋画科に入学。同級生には、猪熊弦一郎や牛島憲之・岡田謙三・小磯良平・小堀四郎・高野三三男・永田一脩・中西利雄・山口長男など、後の画壇界に名を馳せる画家たちが多数在籍していました。
1909年(明治42年)に日本画家の川端玉章が創設した私立美術学校。川端玉章が死去した後、藤島武二が主任教官に任命され洋画部も併設。多くの著名な日本画家・洋画家を輩出するが、太平洋戦争の最中に廃校となる。(※)藤島武二
明治末から昭和にかけて活躍した西洋画家のひとり。ロマン主義・象徴主義的な作風の作品を数多くの絵画を残している。また、指導者としても大きな役割を担っていた。
渡仏1年でサロン・ドートンヌ受賞。順調なキャリアを形成
1927年に東京美術学校を卒業、同年9月にフランスに渡ります。パリのアトリエに入居し、13年に渡ってパリを拠点に制作活動を行いました。渡仏して1年で美術展覧会サロン・ドートンヌ(※)に入選。その後も多数の美術展に出品したり個展を開催したりするなど、順調に画家としての地位を築いていきました。
しかし、1939年、第二次世界大戦により帰国を余儀なくされます。日本に戻った彼は、新制作派協会に会員として迎えられました。日に日に戦争の気配が色濃くなる時世の中でしたが、国内でも個展を開催するなど画家としての認知を高めていきました。
毎年秋にフランス・パリで開催される美術展覧会。前衛芸術や新進芸術家の紹介に積極的であることで有名。「秋のサロン」「秋季展」を意味する。
愛するパリの街並みを描き続けた晩年
1945年に太平洋戦争が終結。その後1948年に、萩須は戦後初めて日本人画家としてフランス滞在を許可され、再びパリへ戻ります。そしてパリにアトリエを置き制作活動を続け、84歳でその生涯を閉じるまで、愛するパリの街並みを描き続けました。
また、萩須は日本とフランス間の文化交流に貢献したことでも知られています。松方コレクション(※)の日本への寄贈返還や日本で初のルーブル美術館展の開催も、彼の尽力があってこそ実現したのでした。
実業家・松方幸次郎が大正初期から昭和初期にかけて収集した美術品コレクションのこと。 浮世絵が約8,000点、西洋美術が約3,000点を超える。1959年にフランス政府から日本に返還された。
人々の生活と歴史がにじみ出る街並み、荻須高徳の作品の特長
▲荻須高徳が愛したパリの街並み
初期は暗く激しいタッチの風景画を残す
萩須高徳は、1927年に初めて訪れたパリで目にした石造りの美しい街並みに感銘を受け、生涯にわたってパリの風景を描き続けました。
渡仏したての頃の作品には、東京美術学校の先輩でありパリでの生活を支えた佐伯祐三や、その佐伯に影響を与えたヴラマンクやモーリス・ユトリロの影響が強く表れており、暗く激しいタッチが特徴的でした。
穏やかで暖かなタッチに作風が変化。等身大のパリを見つめる作品群
佐伯の死後、それらの影響はだんだんと薄くなり、色彩は大きく変化。パリで生活する人々やその街並みを温かく見守るような穏やかなタッチで描かれる作品が多くなりました。
彼の作品には、凱旋門やエッフェル塔などといった有名な建造物はほとんど登場せず、パリの古い建物や寂れた路地裏、何気ない街角などが描かれています。彼自身のパリへの愛、そしてそこに生きる人々の息遣いもが表現された作品は、人々にノスタルジアを感じさせ、パリの批評家たちから賛美されました。
心に刺さるパリの街並みを表現。荻須高徳・作品の評価
▲郷里の愛知県稲沢市に開館した「稲沢市荻須記念美術館」
ノスタルジアが萩須高徳作品の真骨頂。ヨーロッパで高い評価を得る
萩須高徳の絵画の中に人物はほとんど登場しません。それにも関わらず、描かれた建物や路地からは人々の生活音が聞こえてきそうなほど「日常のパリ」を描き出されており、その郷愁溢れるタッチが世界で高い評価を受けています。
1928年には、渡仏して1年で美術展覧会のサロン・ドートンヌに入選。その後も、フランスの高名な美術展覧会に出品したりヨーロッパ各地で個展を開催したりするなど精力的に活動を続け、多数の作品がフランス政府やパリ市政・他国政府に買い取られています。再渡仏後の1949年には、モナコ賞展で大賞を受賞。1956年にはフランス政府からシュヴァリエ・ド・レジオン・ドヌール勲章(※)を授与されました。
1802年5月にナポレオン・ボナパルトが創設したフランスの栄典。フランスの最高勲章。性別、国籍、その他の属性を問わず、さまざまな分野の功労者に授与される。
日仏の文化交流に貢献。故郷には萩須美術館も
フランスと日本の文化交流に尽力した功績が讃えられ、1981年には文化功労者に選任されました。没後1986年には文化勲章を授与。郷里の愛知県稲沢市には「稲沢市荻須記念美術館」が開館され、現在でも多くのファンが訪れています。
戦前・戦後にわたって、フランスを中心にヨーロッパで愛された萩須高徳の作品は、国内でも高い人気を誇ります。買取市場でも高い評価を得ており、作品によっては高値で取引されています。
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荻須高徳の作品紹介
「アレキサンドリヤ・モハムヂェー運河」
1939年制作 油彩 25.5×34cm
戦況が悪化する中、色彩を抑えた哀愁漂う景色を切り取り描いた一作。帰国中のパリのアトリエを、パリ在住の荻須の友人らがいつか戻って来ると信じて戦中も守っていたという逸話もあるほど、フランスから賛美された荻須。
「ガブリエル通り」
リトグラフ 46×56.5cm
パリの一角を荻須独自の角度で再構築し、造形主義の画風を確立した作品。1977年にはソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(国民美術協会。フランスにある美術団体。歴代フランス大統領が後援する唯一の団体で、歴代の日本人会員では黒田清輝、藤田嗣治、横山大観など)に入選し、同団体の会員となりました。
「サンタ・マリア・マッダレーナ広場」
リトグラフ 45.5×54.5cm
後期の萩須高徳の作品は、鮮やかな暖色で萩須自身のパリへの深い愛情が表現されています。そのひとつが、1974年に描かれた「サンタ・マリア・マッダレーナ広場」です。赤やベージュ・茶色を基調として描かれた古い建物、グレーがかった水色で表現された空はどこか物悲しい印象を受けますが、同時に、変わらない日常の穏やかさ・優しさも感じられます。
まとめ
戦前・戦後を通じて半世紀以上フランスに暮らし、パリの古い建物や路地裏・街並みを描き続けた萩洲高徳。風景の中に人々の生命力を表現した作品は、現在でも国内外で高い評価を受けています。
ヨーロッパを中心に高い評価を得る萩須高徳の作品は、買取市場でも評価が高い作家です。キズや汚れがついた作品であっても、査定が高額になることもめずらしくありません。萩須高徳の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
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