ポップで明るい抽象的絵画だけじゃない、知られざる熊谷守一の世界
日本の抽象的絵画の巨匠ともいわれる熊谷守一。その明るい色調と単純化されたモチーフは、非常にポップで親しみやすい印象を与えます。
しかし、こういった作風は、彼の長い作家人生の中でも70代になってから確立されたもの。熊谷守一の絵画の世界は非常に奥深く、その人生の山谷に沿ってさまざまな表情を見せます。この記事では、そんな熊谷守一の生い立ちをはじめ、作品の特徴や魅力についてご紹介します。
抽象的絵画の巨匠・熊谷守一の生い立ち
▲熊谷守一が生まれた岐阜県恵那市の風景
東京美術学校で黒田清輝や藤島武二に学ぶ
熊谷守一は、1880年、岐阜県恵那郡に生まれました。父親は製糸業で成功し、岐阜県会議員や同議長を努めたのち、初代岐阜市帳に就任、その後は衆議院にも選出される名士でした。熊谷守一は幼少時から絵を好み、10代前半から水彩画を描いていたと言われています。
1898年共立美術学館へ入学。その後1900年には東京美術学校(現・東京藝術大学)へ入学しました。東京美術学校では、黒田清輝(※)や藤島武二(※)に師事、同級生には青木繁(※)などがいました。
明治中期の洋画家・美術教育者。ヨーロッパでの油彩画制作の経験をもとに洋画の技法を指導。近代の日本美術の開拓者。
▶黒田清輝について詳しく知りたい方はコチラもチェックしてください。
(※)藤島武治
明治末から昭和にかけて活躍した西洋画家のひとり。ロマン主義・象徴主義的な作風の作品を数多くの絵画を残している。また、指導者としても大きな役割を担っていた。
(※)青木繁
明治期のロマン主義的傾向を代表する画家。作品「海の幸」が日本で初めて国の重要文化財に指定された。
▶青木繁に関して詳しく知りたい方はコチラもチェックしてください
後進の指導にも邁進、日本画壇で活躍した
卒業後の1905年からは、記録画家として樺太(からふと)調査隊に参加。多数のスケッチを行いました。1909年には、自画像「蝋燭(ろうそく)」が第三回文展(※)で入賞。その後、一度実家に戻って材木運搬などの日雇い労働に従事していましたが、1915年に再び上京しました。第二回二科展(※)にて「女」を出展。意欲的な創作活動を行います。
1929年には二科技塾開設に参加し、後進の指導にも邁進。その後、1938年からは墨絵の制作を始め、大阪や奈良・愛知にて初の個展を開催しました。1947年には美術団体・二紀会の創立に参加しています。
文部省美術展覧会の略称。1907年に文部省美術展覧会が開設され、それをはじまりとする。
(※)二科展
二科展とは、公益社団法人 二科会が主催する展覧会。
熊谷守一は岐阜県中津川市に記念館があり油彩画約120点をはじめ、約500点のコレクションを所蔵されております。
「画壇の仙人」と呼ばれ、「熊谷様式」と呼ばれる作風を確立
このように日本画壇において大きな活躍をしましたが、熊谷守一は名声や名誉には無頓着で自由な制作と生活を好んだため、1967年に文化勲章の内示を辞退、1972年には勲三等叙勲をも辞退しています。そんな彼の生き様は、「画壇の仙人」との異名をとることとなりました。
1970代半ばに脳卒中で倒れて以降は、自宅からほとんど出ることなく、自宅の小さな庭で自然を鑑賞しながらアトリエで絵を描くという生活を送りました。その中で、今日知られている「熊谷様式」と呼ばれる明るい色彩と単純化されたモチーフ、赤い輪郭線、平面的な画面構成といった作風が完成。晩年は確立したその作風で描き続け、1977年97歳でこの世を去りました。
「熊谷様式」と呼ばれる、熊谷守一の作品の特徴とは
初期作品には西洋画の影響が見られる
東京美術学校にて黒田清輝や藤島武二ら、日本洋画界の重鎮に師事した熊谷守一。初期作品は、西洋画の表現主義的(※)な作風が見られます。また、初期には暗闇の中のものの見え方を追求することに注力していました。その中で描かれたのが、真っ暗な闇の中で蝋燭を手にした自画像「蝋燭」です。
絵画のみならず、さまざまな芸術分野(絵画、文学、映像、建築など)に見られる表現形態のひとつ。感情をいかに作品中に反映させるかに重きを置く表現や作品を指す。
40代以降の作品には、熊谷の特徴とも言える「赤い輪郭線」が登場
40代に入ってからは、裸体画に傾倒。絵具を何層にも塗り重ねながら色を使い分け、裸婦の体の豊満さを光と影で表現しました。また、この頃から熊谷の特徴でもある赤い輪郭線が登場するようになっています。
画家として成熟していく中で5人の子供をもうけるも、貧困の中で1928年に次男を、1932年に三女、1947年に長女を、と愛する子供の死を相次いで経験。「ヤキバノカエリ」という作品は、長女の火葬後に遺骨を抱える姿が描かれています。暗い色調と枯れた木々を背景に、遺骨が納められた箱だけが白く浮かび上がるこの作品には、我が子を失った痛切な悲しみがにじみます。
明るい色彩とシンプルな画面構成、「熊谷様式」の完成
その後、晩年に近くにつれ、作風は徐々にシンプルになっていきました。明るい色彩と極度に単純化された形、それを囲むはっきりとした輪郭線、平面的な画面構成といった作風は、「熊谷様式」とも呼ばれています。
晩年になって外出が困難になってからは、自宅の庭で観察できる自然や小動物や昆虫・草花などを描きました。中でもよく知られているのは、猫シリーズと呼ばれる作品群です。一見シンプルな絵画に見えますが、鋭い観察眼によって描かれたスケッチによって支えられています。
▲2017年には東京国立近代美術館にて没後40年の回顧展が開かれた
熊谷守一は自由な制作活動を非常に大切にしており、文化勲章や勲三等叙勲などの社会的な名誉とされる称号を辞退しています。しかし、それでも彼の名声は広く知られており、2017年には没後40年の回顧展が東京国立近代美術館で開催され、多くのファンを魅了しました。
水彩や油彩・墨絵・書・版画作品などの多岐にわたる作品はいずれも高く評価されており、非常に高い評価額がつけられています。キズや汚れがあっても、査定額が高くなる作品も数多くあります。熊谷守一の作品の買取を検討されている方は、ぜひ一度ご相談ください。
熊谷守一買取
熊谷守一の作品紹介
「亀」
荒めのタッチであるもののシンプルなその筆使いにより、生き生きとした亀が描かれています。晩年の作品ながら、熊谷様式が年を重ねるごとに確立されていく様を感じさせる作品です。
「猫」
熊谷守一の代表的なモチーフである猫は今なお根強い人気作品です。猫が自由気ままに好きな場所でうたた寝をする姿は、猫と暮らし猫を愛した熊谷ならではの作品でしょう。熊谷が描いた猫だけで一冊の画文集が出版されるほど、熊谷は猫を愛し、スケッチし続けました。
「五風十雨」
絵だけにとどまらず、書についても評価の高い熊谷。最初は世話になった方々へ送っていたものが、後には書の依頼が殺到したとの逸話まであります。自身が好きな言葉を書にしたためていたようですが、富や名声にはこだわらず、なにものにも束縛されないその生き方が文字に反映されているかのような書が、人々を惹きつけるのでしょう。
このほか、熊谷守一の作品には「犬」「牛」など、人気作が数多くあります。時代ごとに画風が変わっていたった作家のため、時代ごとにファンを獲得しており、現代においても根強い人気を持つ作家だと言えます。
まとめ
「熊谷様式」と呼ばれる独特な画風で知られる熊谷守一。そのシンプルでポップながらも印象的な作品は、現在でも多くの人に愛されています。
そんな熊谷守一の作品は買取市場でも人気が高く、作品によっては高額で取引されています。キズや汚れがあっても、査定額が高くなる作品も数多くあります。熊谷守一の作品の買取を検討されている方は、ぜひ一度ご相談ください。
日本画高額買取