明治から昭和に活躍した京都画壇の巨匠・竹内栖鳳
明治から昭和に至る京都画壇の中心的人物・竹内栖鳳。写生を軸にしながら、さまざまな日本画の流派の技法や西洋画の技術を取り入れた画風を確立し、近代日本画の先駆者として活躍しました。「東の大観・西の栖鳳」と称され、現在でも大きな評価を得ています。
この記事では、そんな竹内栖鳳の生い立ちをはじめ、作品の特徴や魅力についてご紹介します。
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京都画壇の中心人物・竹内栖鳳の生い立ち
▲竹内栖鳳が大きな感銘を受けフランスの街並み
10代後半から円山・四条派の私塾で絵画の才覚をあらわした
竹内栖鳳は、1864年に京都で料亭の子として生まれました。小さい頃から絵が好きで、近くに住んでいた四条派(※)の画家、土田英林のもとで絵を習い始めます。17歳のときには、四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい※)の私塾へ正式に入門。当時から才覚をあらわし、楳嶺から「凄風」という雅号を授かり、楳嶺四天王(※)の筆頭として活躍するようになりました。
江戸時代中期頃の呉春(松村月渓)をはじまりとする京都画壇の一大勢力。日本画界でも、大きな影響力を持つ派閥。
(※)幸野楳嶺
日本画家。1880年に京都府画学校を設立。楳嶺塾と呼ばれる私塾も開設し後進の指導に尽力した。
(※)楳嶺四天王
弟子の中でも特に優れた者として、竹内栖鳳・都路華香・谷口香嶠・菊池芳文の4人を指す。
独立後、京都の気鋭若手画家として知られるように
1887年、23歳のときに結婚、絵師として独立します。数々の博覧会で受賞を重ね、京都の若手画家の先鋭革新者として広く知られるようになりました。
また、画塾「竹杖会(※)」を主宰して多くの優秀な門下を輩出。宮内省主催の帝室技芸員に推薦されるなど、京都画壇の代表格として地位を築いていきました。
門下には、上村松園をはじめ、西山翠嶂・西村五雲・伊藤小坡・小野竹喬・土田麦僊・池田遙邨・橋本関雪など、錚々たる作家を輩出した。
海外渡航を経て、西洋や中国の絵画技法を会得した
1900年、36歳のときには、京都市と農商務省の依頼でパリ万国博覧会の視察とヨーロッパの絵画事情の調査を兼ねて7か国の美術行脚に出かけます。現地で多くの美術や風景を目にした竹内は、大きな感銘を受けました。そして帰国後に、西洋画の影響を受けた写実的な動物絵やセピア調の西洋風景の作品を発表。画壇界に衝撃を与えました。
1903年には、渡欧の成果の集大成ともいえる作品、「羅馬之図(ろうまのず)」を発表。やわらかな光の加減や湿気を含んだ空気感を表現する画風は、従来の日本画とは異なる新たなものでした。
また、1920年には56歳にして中国に渡ります。日本画の源流である中国絵画を育んだ風景や自然を目にした竹内は、さらなる表現の高みを目指したのでした。
写生を基軸に西洋画の技法も取り入れた竹内栖鳳。その作品の特徴
▲竹内栖鳳が得意とした「写生(ありのままを写し取る画法)」のイメージ
写生を軸にさまざまな流派の絵画技法を織り交ぜ、独自のスタイルを切り開いた
竹内栖鳳の作品の特徴は、写生画を近代化し活性化したところにあります。四条派などの写生を基軸にしながら、狩野派(※)や大和絵(※)などの技法も取り入れ、近代的な写実主義の絵画を制作しました。さまざまな流派の画風を織り交ぜた革新的なスタイルを追求していったのです。
狩野派は、日本絵画史上最大の画派。室町時代中期から江戸時代末期まで、約400年にわたって活動したとされる。
(※)大和絵
大和絵とは、平安時代に発達し日本独自の絵画様式のこと。中国の絵画「唐絵(からえ)」に対する呼称として定着した。
欧米視察を経て、西洋の風景画の技法を伝統的日本画と融合させた
また、フランスへの視察を経験したことで、西洋画の風景画などにも多大な影響を受けました。帰国後に発表した作品は、当時は美術界から「西洋かぶれ」と批判され、「鵺派(ぬえは※)」と揶揄されましたが、彼は折れずに自身のスタイルを貫き、代表作「斑猫(はんぴょう)」に見られるような、独自の日本画を確立したのでした。
なかでも代表作品として知られているのは、「大獅子図」です。生き生きとした躍動感にあふれる描写は、日本画の範疇でありながらもまるで油彩画のよう。こういった画風には、西洋の絵画の影響が見られます。
鵺とは「サル・タヌキ・トラ・ヘビ」を混合した妖怪のこと。複数の要素を無理やり詰め込んだ下品な絵画として、竹内栖鳳の作品を揶揄するために用いられた。
「東の大観・西の栖鳳」と称される竹内栖鳳。その作品の評価とは
▲さまざまな絵画技法を昇華し、竹内栖鳳は京都画壇を代表する画家に
竹内栖鳳は、京都画壇の代表的な画家であり、「東の大観・西の栖鳳」などと称されるほど高い評価を得ている存在です。写生を基軸にさまざまな流派の画風や西洋画の技法を取り入れて近代日本画を底上げしたのでした。
そんな彼の美術界における功績は非常に大きく、1973年には横山大観らとともに、第一回目の文化勲章を受賞しています。そんな竹内栖鳳の作品は、現代でも高い評価を受けています。
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竹内栖鳳の作品紹介
「秋山吟猿」
木の頂上にいる猿が秋の山々に向かって咆哮している姿が写実的に描かれています。木肌や猿の毛並みも墨の濃淡で描かれ、まるでその質感までもが伝わってきそうなほどです。
「松魚」
松魚(かつお)とは鰹の別名で、釣り上げられた鰹が瑞々しく描かれています。鰹の銀色の皮目の美しさが鮮度の良さを表現し、でっぷりとした姿が脂ののった様までリアルに描写されている一作です。
「秋霽」
秋霽(しゅうせい)とは晴れた秋の日を意味し、その秋の空に飛び立つ雀たちを描いている作品です。栖鳳は身近な小動物の中でも特に好んで描いたのが雀で、雀の作品も多く、人気も高いモチーフです。シンプルな構図ながらも余白を活かした一作です。
竹内栖鳳は、絵画の他、掛軸の作品も数多く手がけています。
日本画と洋画、どちらのエッセンスも取り入れた独自の作品は和風・洋風いずれの空間との相性が良く、現代でも人気が高い作家のひとりです。
まとめ
明治から昭和にかけて、京都画壇の中心的人物として活躍した竹内栖鳳。円山・四条派の写生画を軸に、さまざまな流派の技法や西洋画法を融合させ、独自の日本画を確立しました。
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