絵画も残した文豪・武者小路実篤。作品は小説同様、人間讃歌に溢れる
文豪・武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)。「白樺派」の小説家として、あるいは理想郷の実現を目指した「新しい村」の建設として有名ですが、美術にも強い関心を持っていました。ロダン、ルノワール、ゴッホ、セザンヌなど、当時の西洋美術を日本に紹介し、美術に関する著作も多数あります。
さらに40歳を超えて実篤は自ら絵筆を取り、数々の絵画を発表していきます。画家としても功績を残した経緯にはどのようなものがあったのでしょうか。この記事ではそんな武者小路実篤の人生と、作品の特徴や魅力についてご紹介します。
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武者小路実篤の生い立ち。文学、「新しい村」建設、絵画と多方面で活動
▲調布にある「実篤公園」の像
武者小路実篤の青春時代。志賀直哉と出会い文学活動を始める
武者小路実篤は、1885年5月12日、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に生まれました。武者小路家は江戸時代以来の公卿の家系である由緒正しい家柄。実篤は幼い頃から文学を好んでいたものの、意外にも作文が苦手な子供だったそうです。
学習院初等科、中等学科、高等学科を経て、1906年に東京帝国大学(現・東京大学)社会学科に入学。学習院中等科で知り合った志賀直哉(※)とは、生涯の友として交流を深めました。1907年、志賀直哉らと「一四日会」を結成し、文学活動を始めます。同年、東大を中退し、文学活動に力を入れることとなります。
1910年、志賀直哉や有島武郎(※)、有島生馬らとともに文学雑誌「白樺」を創刊。実篤や志賀直哉らはこれにちなみ「白樺派」と呼ばれています。
明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとり。代表作に「暗夜行路」「小僧の神様」「城の崎にて」など。
(※)有島武郎
明治から大正にかけて活躍した日本の小説家。志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。代表作に「カインの末裔」「或る女」など。
理想郷「新しき村」建設。長女が生まれたのを機に絵を描き始める
実篤は次第に階級闘争の無い世界、理想郷を夢見ていきます。その実践のため、1918年、宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設しました。そこで執筆活動を行いながら農作業を行う暮らしをしていました。しかし、ダム建設などにより村が水没することになったため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町へ新たに「新しき村」を建設しました。
1923年には関東大震災で生家消失、「白樺」が終刊と、実篤にとって喪失感を抱えたであろう出来事が立て続けに起こります。ですが、この年に長女が生まれたのをきっかけに絵筆を取り、熱心に絵を描き始めるようになりました。病気で寝込む日以外、絵に取り組んでいたといいます。最初は下手だったものの、少しずつ上達する喜びを感じていました。1927年、「南瓜」を制作し、これが最初に描いた油絵と記されています。
戦争で大きな苦しみを味わう。晩年は穏やかな心の境地で色紙を描く
もともと美術に高い関心を持っていた実篤は1936年にヨーロッパへと旅立ちます。8カ月間の旅行で、美術館と画家のアトリエを訪問し、深い見識を得ました。しかし、黄色人種として差別的な扱いを受けることもあったようです。その辛い経験から、第二次世界大戦中は戦争賛成の立場で活動を行いました。1946年、貴族院議員に勅選されましたが、戦争協力を理由に公職追放されてしまいます。1948年、日本の文化を守るという目的で雑誌『心』を創刊します。1951年には公職追放の解除となり、数々の功績から文化勲章を受章しました。
実篤の人生は常に理想を追い求め、実現するために精力的に活動を行うものでした。晩年は穏やかで大きな心にたどり着き、その心を表すように、素朴な野菜の絵に一言を添えた色紙を描き始めます。
1955年70歳のときに東京・調布市に移住し、亡くなるまでの20年間を過ごします。旧家は現在、「調布市武者小路実篤記念館」として公開されていて、そちらで原稿や絵画、書簡などを見ることができます。実篤が過ごした母屋は2017年に登録有形文化財となりました。そして、1976年4月9日、90歳の生涯に幕を下ろしました。
武者小路実篤の作品の特徴。色紙に描いた野菜や果物と、寄り添う言葉
▲武者小路実篤実篤の絵画には野菜が頻繁に登場する
武者小路実篤は色紙に野菜や花を描き、「讃」とよばれる短い言葉を添えた作品を多く制作しました。
題材は台所にあるような野菜や果物を好んで描きました。自然が作る野菜の色や形と新鮮な生命力を素直に描き出した実篤の絵には、当たり前にある美しさに気づかせてくれます。絵と一緒に寄り添うような言葉は、観る人の心をも落ち着かせてくれます。
1965年に満80歳の誕生日を迎えたのをきっかけに署名を常用漢字に改め、落款に年齢を書き添えるようになりました。年齢が無い作品は1965年以前のものとなります。
武者小路実篤、絵画作品の評価とは?
武者小路実篤の制作した色紙は、戦後日本の多くの家庭に飾られ、市井の人々にとって身近な作品となりました。実篤はたくさんの著書を残していますが、中でも『武者小路実篤画文集』や、『人生は楽ではない。そこが面白いとしておく 武者小路実篤画文集』には、絵画が数多く掲載されています。
現在は「調布市武者小路実篤記念館」、埼玉県入間郡毛呂山町の「新しき村美術館」などで常時作品に触れることができます。「新しき村美術館」では、実篤の日本画、書、油絵、素描、原稿が約400点展示されています。
直筆の色紙であればオークションで数万円の値がつくものもあります。ヤケやシミがあっても、査定額が高くなることも。武者小路実篤の作品の買取を検討されている方は、ぜひ一度ご相談ください。
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武者小路実篤の作品紹介
武者小路実篤の作品には、身近な野菜や果物が多く描かれています。台所にあるそれらは、実篤にとって描きたいときにすぐ描ける一番のモデルだったと言います。
絵の横に手描きの短い言葉「讃」が添えられており、小説家として、画家として両方の面を持った実篤ならではの作品といえるでしょう。
「三人兄弟いづれも特色ありて面白し」
似たり寄ったりのきょうだいでも、それぞれに個性があり、それが人間味を増しているといった気持ちを表現しています。 松茸のかわいらしい姿が印象的な作品です。
「仲よき事は美しき哉」
「仲良きことは美しき哉」という文がしたためられた絵は、実篤の絵画作品の中でも特に人気がありました。実篤は多くの野菜を描きましたが、中でもかぼちゃの絵が多い傾向があります。かぼちゃにじゃがいも、たまねぎ、柿を描くことで、ひとつひとつ種類は違えど、仲睦まじく寄り添う姿を表現しています。
「馬鈴薯と生姜」
馬鈴薯と生姜といった違う種類の野菜を描くことで、『君は君』とお互いの違いを認めつつ、お互いを尊重しあう大切さを描いています。実篤の作品は、個性や多様性を重んじる今の時代にも心に響く作品が多くあります。
まとめ
武者小路実篤は、90年の長い生涯の中で、小説や絵画の制作をはじめ、数々の功績を残しました。
身近なモチーフを素朴な筆致で描いた書画には、実篤が生涯抱いていた人間への愛が込められており、人々の心にそっと寄り添い支えてくれます。作品は今でも多くの人々に語り継がれ、愛されています。
武者小路実篤の作品は買取査定の評価が高い作家の一人です。キズや汚れがついた作品であっても、作品によっては高値で取引されています。武者小路実篤の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
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