明治~昭和に活躍した上村松園。女性の美を表現し続けた女流画家
上村松園は明治~大正~昭和を通じて美人画を描き続けた女流日本画家です。まだまだ封建的な明治時代、保守的だった画壇の中で女性画家として身を立てることは並大抵の苦労ではありませんでした。それでも松園は、女性の美しさと人としての価値を絵の中で表現し続けました。
作品は写実的なだけではなく女性から見た理想の美・あこがれをも描き出し、強さと気品に満ちています。
女性として初めて文化勲章を受章するなど多くの功績を残した上村松園。絵に捧げたその生涯と作品の魅力をご紹介します。
美人画家・上村松園。絵とともに生きた74年の生涯
▲上村松園が生まれた京都、河原町の街並み
上村松園の生い立ち。3人の恩師と母の存在が作風を築き上げる
上村松園は、1875年4月23日、京都の下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女・津禰(つね)として生まれました。父は松園が生まれる2カ月前に他界。松園は子供の時から絵を描くのが好きでしたが、認めてくれるのは女手一つで育ててくれた母のみでした。そのような環境で抱いた母親への尊敬と感謝の念が、後の作風へと繋がります。
12歳 のときに日本で最初の画学校である京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学するも、絵は画家の門下で学ぶべきと翌年には退学。四条派の鈴木松年(すずきしょうねん)に師事し、師より「松園」の雅号を与えられました。
当時、男性社会の中で絵を学び続けることは厳しいことでした。しかし16歳のときに第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品し、一等褒状受賞したことで画家の道が拓けます。さらに、この絵を英国皇太子コンノート殿下が購入したことが話題に。1892年シカゴ万博に「四季美人図」を出品し、そこでも二等賞を受賞するなど、松園は画壇での高い評価を得ていくのでした。
1893年、松園は19歳のとき新たな画法を学ぶべく、円山派・幸野楳嶺(こうのばいれい)(※)に師事しますが、その翌年に楳嶺が亡くなったことにより、近代日本画の先駆者である竹内栖鳳(たけうちせいほう)(※)の門を叩きます。
江戸時代末から明治初期にかけて活躍した日本画家。江戸時代末から明治初期の日本画家。教育者として名高く、門下には上村松園のほか竹内栖鳳、川合玉堂らが在籍。
(※)竹内栖鳳
江戸時代末期から昭和初期に活躍した日本画家。近代日本画の先駆者で、京都画壇を代表する作家。第1回文化勲章受章者。
上村松園、女性として画家を続ける苦悩と波乱万丈な人生
1902年27歳の頃、松園は未婚ながら長男・信太郎(のちの上村松篁)を出産します。父親は最初の師の松年だったと言われていますが、松園は多くは語りませんでした。息子である松篁(しょうこう)も母の背を見て育ち、日本画家の道へ進みます。そして、後に文化勲章を受章する大家となります。
画壇での評価は高まっていた松園ですが、女性で画家を続けていくには辛い時代でした。誹謗中傷も多く、1904年には展覧会に出品中の作品「遊女亀遊」の顔に落書きされるという悲しい事件が起こります。しかし、松園は屈しませんでした。外国人の客を決して取らなかった遊女をモチーフにしたこの絵は、「女は強く」という松園の気持ちを表しているといえるかもしれません。
1907年、文部省美術展覧会に入選した後も松園の絵は受賞を繰り返し、第10回からはその実績から永久無鑑査となり、一流画家として評価されました。多くの人々が松園の絵に魅了され名実ともに認められ、帝国美術院展覧会(帝展)など展覧会の審査員にもなる一方でニューヨーク万国博覧会に出品するなど精力的に活動しました。
晩年も大作を制作し続けた上村松園。女性初の文化勲章受章
松園は自らの人生で起こったことを作品へと昇華する力がありました。
1918年、「焔(ほのお)」を制作。40代に入り、年下の男性との大失恋を経験した傷心の松園が描いたこの作品は、嫉妬の感情にかられ怨念や憎悪を含んだ女性が描かれています。松園が今まで描いていた女性像とはまた違う一面を見せた作品となりました。
1934年には長年松園の絵の道を応援し、支えてくれていた母が亡くなります。松園は追慕の思いで「青眉」「母子」を制作し、高い評価を得ます。著書『青眉抄』では、「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と母への愛と感謝を記しています。
1936年松園61歳のとき、生涯の代表作となる「序の舞」を完成させました。この作品からは、モデルである義娘への愛情も感じさせられます。1948年、女性として初の文化勲章を受章。1949年、松園は74歳で生涯に幕を下ろしました。松園の死後、その功績が讃えられ、従四位に叙せられました。
格調高い女性を描き続けた上村松園の作品の特長
美しく品のある日本女性。女性から見た理想の女性像を描く
上村松園の美人画からは、京都の伝統文化の中で生まれ育った誇りと格調高さが感じられます。
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」を念頭にして制作していた、という松園。作品には彼女の強い意志と願いが込められています。松園は、明治~大正~昭和という男尊女卑社会の中で理想の女性像を描き、女性の人としての価値を高めたいという思いを込めて作品を制作し続けました。
モチーフとしては、まず、古典・謡曲・故事から着想を得たものがあります。謡曲を題材とした「花がたみ」と「焔」は、松園の作品の中では異色の情念がこもった作品です。
また娘や新妻を題材としたもの、市井の女性や母の面影を題材としたものなど、当時の美しい日本女性の風俗を描いた作品が特徴的です。支えてくれた母のことを思い制作した「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」は特に格調高い絵として有名です。
師の教えに従い、毛筆のみで様々な線を使い分ける
松園の作品は、すべて毛筆で描かれています。その繊細さは鉛筆との区別がつかないほど。時には細かく、時には力強い線と、様々な筆のタッチを駆使しているのが特長です。
毛筆だけを用いて描くのは、「画家は筆のみを用いるべき」という、最初の師・松年の教えと言われています。
上村松園・作品の評価とは?今なお美人画の大家として名高い
上村松園は、日本画の大家です。女性目線で美人画、日本女性の風俗を描きました。近代日本における美人画の代表的作家は「西の松園、東の鏑木清方」とされることがあります。松園の3歳年下だった鏑木清方は、松園の作品を目標としていたと後に回想。現代の画壇では「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」とまでいわれています。
女性を描いた作品、特に女性の顔を画面いっぱいに描いた松園の作品は非常に人気があり、高く評価されています。
上村松園買取
上村松園の作品紹介
「序の舞」
1936年上村松園が61歳のときに発表した「序の舞」は松園の代表作といわれています。のちに重要文化財に指定されました。
松園が思う「真に理想の女性像」が描かれていて、毅然とした品のある女性の、強くはかない魅力があふれた作品となっています。上流家庭の令嬢が静かで上品な「序の舞」を舞う姿が描かれています。朱と鶯色を基調とした大振り袖、総絞りの帯揚げ、変わり織りの菊柄の半襟など、着物からも品格がただよっています。モデルは息子・松篁の妻たね子です。たね子にこの絵のモデルを務めさせたとき、一番上品な日本髪・文金高島田を結い、着物も嫁入りの時の大振袖を着せたそうです。義娘への愛情も垣間見える作品です。
上村松園 シルクスクリーン 「娘深雪」
浄瑠璃や歌舞伎の演目「生写朝顔日記」の主人公・深雪を描いた作品。阿曽次郎と恋に落ち、もらった扇を見入っている最中に人の気配を感じ、慌てて扇を隠して振り向いたシーンを描いている。恋人を想う純粋な乙女心が描かれた、上村松園の代表作のひとつです。
上村松園 シルクスクリーン 「鼓の音」
昭和15年にニューヨーク万国博覧会に出品された作品。朱色の着物に身を包み、鼓を打つ女性の姿がとても印象的な作品です。鼓の音が響き渡り、凛とした空気感までもが伝わってくる気品にあふれた作品。
まとめ
生涯をかけて美人画を描き続けた上村松園。その美しく格調高い作品は、現在でも多の人に愛されています。
そんな上村松園の作品は買取市場でも人気が高く、作品によっては高額で取引されています。キズや汚れがあっても、査定額が高くなる作品も数多くあります。上村松園の作品の買取を検討されている方は、ぜひ一度ご相談ください。
日本画高額買取