美人画の名手・鏑木清方。名画築地明石町含む三部作は5億4000万円の評価に
鏑木清方は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家であり、1972年に93歳で亡くなるまで80年もの間描き続けた美人画の名手です。上村松園と並び称される美人画の大家で「最後の浮世絵師」とも呼ばれています。
風俗画も多く発表し、市井の人々の共感を得るようなどこか懐かしい作品を手掛けました。また挿絵画家として画業をスタートしたこともあり、泉鏡花や尾崎紅葉など、教科書でおなじみの文豪たちとも交流がありました。特に泉鏡花とのタッグは高い評価を得ています。
この記事では、美人画家として評価を得たあとも満足することなく芸術を模索し続けた鏑木清方の、生い立ちをはじめ作品の特徴や魅力についてご紹介します。
鏑木清方とは。近代日本画の礎を築いた美人画家
▲鏑木清方が晩年を過ごした鎌倉
鏑木清方の生い立ち。江戸に生まれ、文化人と交流
鏑木清方は1878年8月31日に東京・神田に生まれました。父・条野栽菊(じょうのさいぎく)は「東京日日新聞」「やまと新聞」の創刊に携わった明治初期のジャーナリストでした。父の仕事や下町という環境の中で、清方は幼い頃から噺家や浮世絵師など、文化人との交流がありました。
中でも縁が深かった噺家・三遊亭円朝の勧めもあり、13歳で月岡芳年(※)の門下生である浮世絵師・水野年方のもとに入門。15歳で年方より「清方」の画号を授けられました。
幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師。衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の名称でも呼ばれる。
若き日より挿絵画家として画業を開始。作風に苦悩も
「やまと新聞」は落語の口述筆記を載せており、17歳頃から清方はその挿絵画家として順調なスタートを切りました。
23歳、泉鏡花(※)の『三枚續(さんまいつづき)』の口絵と装幀を依頼されたことで、清方は鏡花と親交を結ぶことになります。文学への造詣も深まり、自身も随筆集を手掛けました。またこの頃から日本画への関心が強まり、特に文学から題材を得た日本画を多く発表していきます。
25歳、文芸界をリードした雑誌『文藝倶樂部(ぶんげいくらぶ)』の口絵を飾るようになり、清方は挿絵画家としての土台を固めます。しかし、当時挿絵は芸術として認められず、また浮世絵師としての地位も高くはなかったため、純粋な絵画芸術とは何かと苦悩していました。
明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家。尾崎紅葉に師事し、戯曲や俳句も手がけた。
美人画家としての地位を確立。画壇にて精力的に活動
37歳、第9回文部省美術展覧会(文展)で「霽(は)れゆく村雨」が最高賞を受賞後も清方は精力的に制作。49歳のとき、帝国美術院展(帝展)に出品した「築地明石町」が審査委員たちに絶賛され、清方は帝国美術院賞を受賞しました。この作品がきっかけとなり、名実ともに清方の名が世に知れ渡ることとなります。
清方52歳のとき、恩人を描いた「三遊亭圓朝像」を第11回帝展に出品。この作品は2003年、重要文化財に指定されました。清方は美人画を制作する一方で、41歳の頃は第1回帝国美術院展(帝展)の審査員、59歳で帝国芸術院会員、68歳で第1回日本美術展覧会(日展)の審査員を務めるなど、画壇で後進を育てる活動にも尽力していました。
第二次世界大戦で東京・牛込神楽坂の自宅を消失していたため、神奈川県・鎌倉へ転居し、晩年は鎌倉で過ごした清方。戦後は日本の原風景を残した風俗画も多く手掛けていきます。その後清方は76歳で文化勲章を受章、1972年に93歳で亡くなりました。現在、鎌倉・雪ノ下の旧居跡には、「鏑木清方記念美術館」が建設されています。
近代日本画の巨匠、鏑木清方の作品の特徴
▲鏑木清方と親交が深かった「泉鏡花」の筆塚
高い技術で描かれた美人画は内面をも映し出す
鏑木清方の作品といえば、なんと言っても高い技術に基づいた美人画です。繊細な筆致で、女性の内面まで描き出すような描写が特徴です。
凛とした印象の洗練された女性や上品で美しい女性など、艶のある女性を気品とともに描くことを最も得意としていました。
そこには、幼少期より多くの文化人に囲まれて育った清方の教養が表れています。
市井に生きる人々を描いた作品や文学を題材とした作品も
鏑木清方は、美人画家としての土台を確立した後も、芸術を模索し続けました。その過程で、自身が生まれ育った江戸の下町の、古き良き市井の人々の人情や風情、いきいきとした生活を描くようになります。また、関東大震災以後は失われつつあった明治の情景も制作のテーマとしていきます。
挿絵画家として泉鏡花と親交が深く、多くの小説家と交流がありました。愛読していた樋口一葉など、文学に取材した作品を多数制作しています。また、重要文化財に指定された「三遊亭圓朝像」をはじめとした肖像画も手掛けています。
鏑木清方の作品の評価は?美人画の大家として名高い
鏑木清方の代表作として有名なのは、1927年制作「築地明石町」に連なる「新富町」「浜町河岸」の三部作です。特に「築地明石町」は44年もの間所在不明となっていたため、幻の名作と呼ばれています。2019年に発見され、東京国立近代美術館が三部作全てを計5億4000万円で購入しました。同年「鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開」として特別展が行われ、人気を博しました。
美人画を得意としており、近代美人画の大家として「西の上村松園、東の鏑木清方」と称されています。色っぽい女性が大きく描かれ、物語性があるものは高い評価を得ています。さらに雪や桜など、季節を感じさせるモチーフが女性と一緒に描かれているものも特に人気です。鎌倉市雪ノ下には、旧居跡に建てられた「鏑木清方記念美術館」があり、いつでも作品を見ることができます。
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鏑木清方の作品紹介
「掛軸 秋の野路」
秋晴れの日に薄や竜胆の咲く野道を歩く女性。鏑木清方は、女性の端正な容姿の美しさのみならず、内側からの美しさをも表現した美人画の名手です。虫の音色までもが聞こえてきそうなほど、秋の訪れを感じさせる作品です。
「庭の紫陽花」
梅雨の風情を描いた、和服美人の美しさと紫陽花の美しさが両立した作品です。鏑木清方の作品は、四季折々の花々や景色とともに描かれたものが多く、四季の移ろいとともに、変わることのない優雅で清らかな女性の美しさを表現しています。
「夏の宵」
姉と弟のきょうだいふたりが、夏の宵の口に花火に興じている様を描いています。日中の暑さも和らぎ、夜の帳が下りる頃、夕暮れの涼しい風を感じながら花火をたのしむ子どもたちを描いた情緒ある作品です。
まとめ
鏑木清方は、明治から昭和にかけて多くの作品を残した近代美人画の名手です。外見の美しさを描くだけではなく、内面まで映し出すような繊細な筆致で、今なお多くの人々を魅了し続けています。
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