彫刻家・詩人、高村光太郎の作品・評価とは。代表作「乙女の像」に最愛の人の姿を刻む
高村光太郎(たかむらこうたろう)は、大正、昭和の時代に活躍した彫刻家です。彫刻と同時に『道程』『智恵子抄』といった詩集を残しました。詩人としても有名ながら、その本質は彫刻家であると光太郎自ら語っています。
「近代彫刻の父」と呼ばれるロダン(※)に影響を受け、精神を表現するような存在感のある作品を多く制作しました。生涯にわたり智恵子を愛し続け、彫刻を彫り続けた光太郎。亡き妻・智恵子の姿を刻んだ「乙女の像」が最後の作品となりました。この記事では、そんな高村光太郎の、最愛の人に捧げた人生と作品の魅力についてご紹介します。
フランスの彫刻家。「考える人」や「地獄の門」が有名。
人間の内的生命を表現し、近代彫刻に多大なる影響を与えた。
高村光太郎の生い立ち。最愛の智恵子にささげた生涯
▲高村光太郎が留学したニューヨーク
高村光太郎の父は有名な彫刻家
高村光太郎(本名の読みは みつたろう)は明治16年3月13日に誕生しました。父・光蔵(光雲)は明治・大正時代を代表する仏師・彫刻家です。
15歳で父が教壇に立つ東京美術学校予備の課程に進みます。翌年には本科へ進み、本格的に彫刻の道を歩み出しました。父と同じ彫刻の道を選んだことで、父への負い目、鬱屈とした感情を生涯抱えていくことになります。
文学の才能にも恵まれ、在学中には与謝野鉄幹(※)が刊行する同人誌に篁砕雨(たかむらさいう)の筆名で詩や短歌を寄稿していました。
明治35年、20歳で卒業。22歳の頃、オーギュスト・ロダンの「考える人」の彫刻の写真を見て衝撃を受けます。彫刻に現れた内的な生命の表現、精神の自由を感じ取り、ロダンの作品と思想、近代彫刻に傾倒していきます。
明治~昭和前期の歌人・詩人で、与謝野晶子の夫。
短歌の革新を唱え、機関誌「明星」を創刊。日本浪漫主義運動を主導しながら、北坂白秋や石川啄木などの逸材を世に送り出した。
最愛の妻・智恵子との出会い。そして別れ
美術学校を卒業した光太郎は、欧米に留学し見識を深めました。最初は明治39年、24歳で渡米し、ニューヨークで彫刻家・碌山(※)、画家・柳敬助(※)に出会います。碌山もまた、ロダンに影響を受けた一人でした。その後はイギリス、フランスへと移り住み、欧米での生活を通して自分を解放し、新たな価値観を得ることとなりました。
明治42年に帰国した日本は、光太郎にとって窮屈でなりませんでした。特に父は古いタイプの職人気質の彫刻家であったため、耐えがたき嫌悪感を感じます。父や日本の封建的な風土に反発し、当時流行していたデカダンに流れ退廃的な生活をしていた光太郎。しかし、ニューヨークで知り合った柳敬助の紹介で智恵子と出会い、人生が変わっていきます。
大正3年、詩集『道程』を出版。デカダンと決別し、強い意志を持って生きていく決意がこめられた作品でした。この年に光太郎32歳、智恵子29歳で結婚をします。
しかし幸福な時間は長くは続きませんでした。十数後、元々病弱だった智恵子は故郷の不幸により徐々に精神を病んでいきます。智恵子に救われた光太郎は、今度は自分の一生を智恵子の病気のためにささげようと誓います。肺結核と精神病に苦しめられ昭和13年、智恵子は53歳で亡くなりました。智恵子を思い、光太郎は昭和16年に詩集『智恵子抄』を刊行します。
荻原守衛。「碌山」の号で知られる明治期の彫刻家。ロダンに学んだ日本人であり、“日本近代彫刻の父”といわれている。
(※)柳敬助
明治~大正期の洋画家。欧米に留学し高村光太郎、荻原守衛らと交遊があった。
晩年は智恵子への思いを作品に込める
光太郎は、智恵子を失った悲しみに暮れていました。太平洋戦争へと向かう時世もあって、自らの人生や芸術への目標を見失い、戦争協力詩を多く発表していきます。戦時中は空襲によるアトリエの炎上で、多くの作品を失ってしまいます。さらに敗戦に打ちのめされた光太郎は、自らの愚かしさに気づき、岩手県十和田市の山中にて山小屋生活を送りはじめます。罪を償うような山小屋での生活の中では、智恵子への思いを刻むように多くの書を残しています。
約7年後、十和田湖国立公園15周年記念像の制作依頼が光太郎のもとに舞い込みました。光太郎は依頼を引き受け、東京のアトリエに戻り制作に熱中。昭和28年に「乙女の像」が完成します。智恵子をモデルとし、手を合わせて向かい合う二人の裸婦の像は現在でも十和田湖畔にたたずんでいます。
「乙女の像」完成後、肺結核を発症した光太郎は、昭和31年4月2日、73歳で人生に幕を閉じました。智恵子と共に生き、智恵子に捧げた生涯でした。
高村光太郎の作品の特徴
対象の内面を描くような存在感のある塑像
高村光太郎の作品は、父である高村光雲から教え込まれた日本彫刻の伝統的な技術と、西欧の近代的な造形が組み合わされています。特に「近代彫刻の父」と称されるロダンの作品や思想から多大なる影響を受けました。モチーフの精神や内面を描くことを重視し、生命や死までも表現しようとしています。
代表作のひとつは日本女子大学の創始者である「成瀬仁蔵胸像」。14年がかりで作成したこの作品には、強い信念を持つ人格が刻みこまれ、存在感にあふれています。
写実的で朴訥とした木彫
光太郎の彫刻の道は、父から教えられた木彫からスタートしました。一時期は塑像(※)が中心となりますが、後年は木彫も多く手掛けています。
木彫は写実的で、朴訥とした味わいを感じさせます。「蝉」や「鰻」など、形が気に入ったモチーフは何度も制作し、同モチーフの複数の作品が残されています。
粘土を素材とした像。
高村光太郎の評価。彫刻、詩と今なお人気
高村光太郎の手掛けた詩集『道程』『智恵子抄』は、教科書に載るほど有名です。しかし、光太郎の本質は詩人ではなく彫刻家であり、精神の基礎は彫刻にあると語っています。空襲による作業場の消失や、智恵子との思い出の品を自身の手で焼き払うなどしたため現存しているものが少なく、どの作品も希少となっています。
2013年、生誕130年として千葉市美術館にて「彫刻家・高村光太郎展」が開催されました。詩や時折作成した絵画はあえて展示せず、ブロンズ彫像や木彫など、彫刻にこだわった切り口で展示がなされ、好評を博しました。その中には芸術家として活動していた智恵子の作品も展示されました。十和田湖畔に建つ「乙女の像」は十和田湖のシンボルとして知られ、今なお多くの観光客が訪れています。
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高村光太郎の彫刻作品紹介
「手」
普通の男性よりひとまわり大きな左手は、34歳の光太郎自身の手をモデルとして制作されました。貧乏でモデルを雇う余裕がなく、自らの手を使用したとされています。厚い筋肉に覆われ、反り返った親指が特徴。小指はふんわりと弧を描いており、「施無畏(せむい)」と呼ばれる観世音菩薩の手をイメージしています。父への葛藤の中、彫刻家として生きていくという強い意志が込められている作品です。長らく正確な制作年代が不明でしたが、研究により、今では大正7年頃に作成されたといわれています。
「乙女の像」
十和田湖国立公園指定15周年を記念して、昭和28年に建てられました。高さ2.1mの2人の裸婦が左手を合わせ見つめ合っており、背中の線を伸ばしてつなげた三角形が無限を表すとされています。モデルは光太郎の愛妻、智恵子。台座には智恵子の故郷、福島産の黒御影石が使われています。依頼から完成まで1年以上費やし、光太郎の思いの深さをうかがい知ることができます。「乙女の像」は光太郎の人生最後の作品となりました。
「蝉」
光太郎の木彫作品の中でも代表的な作品の一つです。木彫は小さく、朴訥とした味わいのあるものを多く残しています。ただ写実的に表現するのではなく、木の風合いや表面の彫り跡を残し、まるで生きているかのように生命を感じることができます。光太郎は気に入ったモチーフを複数作成しましたが、とくに蝉の持つ線の美しさにひかれ、愛着を持っていました。『蝉の美と造形』という文章の中で、翅の表現についてのこだわりを記しています。
まとめ
彫刻、詩と、多くの芸術作品を残した高村光太郎。父の重圧や最愛の人の死など、苦しみを多く感じた人生だったかもしれません。
しかし、光太郎の残した作品はいずれも生命を刻み込まれたかのように生き生きとした存在感を放ち、見る人の心を惹きつけてやみません。
高村光太郎は国内外での評価も高く、買取査定の評価が高い作家の一人です。キズや汚れがついた作品であっても、作品によっては高値で取引されています。高村光太郎の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。