琳派の本家。金屏風知られる尾形光琳の生い立ちと作品の評価とは?
尾形光琳(おがたこうりん)は江戸時代最大の芸術家の一人です。雅で伝統的な大和絵(やまとえ)(※)に斬新な構図や画面を取り入れ、芸術流派「琳派」を大成させました。「琳派」の「琳」は光琳から来ています。
作品は絵、蒔絵(※)や焼き物、団扇など多岐にわたります。中でも屏風絵が得意とされており、背景には金箔をふんだんに使用し、豪華なもので知られています。
本格的に光琳が絵師として活躍したのは44~59歳までのわずか15年間といわれていますが、多数の作品が国宝や重要文化財として指定されています。この記事では、そんな尾形光琳の生い立ちや、作品の特徴、評価についてご紹介します。
唐絵(からえ)に対する絵画のスタイルで、主に日本風の作品のものを指す呼称。平安時代に発達した日本独自の絵画。
(※)蒔絵
漆工芸の装飾法の一種。加飾しようとする面に漆で文様を描き、その上に金、銀、錫の粉や色粉を蒔いて固めたもの。
琳派の代表画家・尾形光琳のプロフィール
▲尾形光琳が生まれた京都の町並み
尾形光琳の生い立ち。京都の裕福な家庭で育つ
尾形光琳は1658年、雁金屋という京都でも有数の呉服商の次男に生まれました。能や茶道、書画など様々な芸術に幼い頃から触れた光琳。絵画・染物・工芸の知識とセンスは、幼少時代から養われました。陶工の尾形乾山は5歳年下の弟であり、乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、共同作品の制作も行ないました。
尾形光琳、絵師として活躍した濃密な15年
光琳が30歳の頃、父が亡くなります。それまでの自由気ままな生活が続けられなくなりお金に困った光琳は、30代前半のとき絵画の道を志します。光琳が本格的に画家として活動をしはじめたのは1701年、44歳の頃といわれています。その年に宮廷から法橋(ほっきょう)という称号を賜った記録があり、作品にも「法橋光琳」という落款(※)が残されています。法橋は高僧の僧位のひとつですが、絵師、仏師などにも与えられました。
光琳には多くの支援者がいたとされていますが、金銀改鋳(※)で巨額の富を築いた中村内蔵介(なかむらくらのすけ)は重要なひとりです。内蔵介の支援で江戸へ渡ると、大名家とも縁を結び、屏風絵を描き始めます。
5年ほど江戸に滞在した後、52歳の頃、京都へ戻ることになりました。京都にて代表作である「風神雷神図屏風」や「紅白梅図屏風」などの大作を制作します。15年ほどの活動期間ながら、光琳は琳派の代表画家と呼ばれるほど豪奢で歴史に残る作品を制作しました。1716年、59歳で人生に幕を下ろしました。
書画完成時に作者が署名、または押印すること。また、その署名や印。
(※)改鋳
鋳造しなおすこと。
尾形光琳の作品の特徴琳派の技法と装飾的な作風で知られる
▲MOA美術館の光琳屋敷。尾形光琳が描いた図面と大工の仕様帖、茶室起し図を基に作られた
金箔、銀箔を使用した豪華な背景と大胆な構図で空間を表現
尾形光琳の作品は大和絵を基盤とし、背景に金箔、銀箔をふんだんに使用しています。大胆でインパクトのある構図と平面的なデザインは、現代にも通ずるものがあります。染物で使う型紙の技法を取り入れており、このアイデアは呉服屋で生まれた光琳ならでは。
特徴的なのは「たらしこみ」というにじみで濃淡をつける技法。薄い絵の具を塗ったあと、乾く前に濃い色をたらし、紙の上でにじませます。雲や木肌など、自然の風合いをたらしこみによる濃淡で表現しました。
日本の屏風は6枚で1セットとする六曲一双がほとんどですが、光琳をはじめとした琳派の屏風は二曲一双が基本となっています。余白を使ったダイナミックな構図を作りやすいという特徴へと繋がっています。
多くの画家からの学びと都会的な感覚を用い、多彩な作品を制作
光琳は、紙・絹・板・着物・硯箱・焼き物など、絵を描けるものであれば何にでも描いたといわれています。大画面を利用した雅な屏風絵から瀟洒な水墨画まで、多彩な作品を残しました。
自由気ままな性格だったとされる光琳ですが、絵画については多くの画家の作品を熱心に勉強していました。特に江戸時代前半の絵師・俵屋宗達とは直接的な師弟関係は無いものの、たらしこみの技法を用いたり、傑作「風神雷神図屏風」の模写を作成するなど、多大な影響を受けたとされています。
また雪舟の水墨画からも大いに刺激を受け、晩年の大作「紅白梅図屏風」は水墨画の技法を取り入れています。どの作品においても都市的な感覚と意匠があふれており、光琳の教養を感じることができます。
尾形光琳の評価。作品は国宝や重要文化財に指定されている
絵画を中心とし、書や工芸などを含む造形芸術上の流派である琳派は、尾形光琳の名前から名づけられました。琳派は桃山時代後期に興り、光琳・乾山兄弟が確立したといわれています。豊かな装飾性・デザイン性が特徴で、私淑により受け継がれた他に類を見ない流派です。
「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」は国宝に、「風神雷神図屏風」は重要文化財に指定されるなど、光琳の作品は日本絵画史全体として高い評価を得ています。
光琳の晩年の代表作である「紅白梅図屏風」は素材・技法が科学調査されており、主題についても多くの人々のあいだで議論されるなど、今なお人々を惹きつけてやみません。作品は本物であれば非常に高額な買取額となります。
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尾形光琳の作品紹介
「燕子花図屏風」
「燕子花図屏風」は1701~1704年頃、法橋叙任(※)直後に制作された光琳初期の作品です。国宝に指定されています。「伊勢物語」(※)第九段「八橋」をモチーフにしていますが、橋は描かず、沢のほとりに咲く燕子花のみを描いているのが特徴です。
金地に燕子花の群青色、葉の緑色が映え、すがすがしさを感じさせます。
金地の背景には金箔を1000枚以上使用しており、余白からは空間の広がりと奥行を無限に感じることが出来ます。
型紙を使って反復させた燕子花は、高級画材である群青(アズライト)、緑青(マラカイト)で作られた顔料を惜しみなく使って描かれています。
官職に任ずることを指す言葉。
(※)伊勢物語
平安時代に成立した日本の歌物語。実在した貴族、在原業平を思わせる人物を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集。
「紅白梅図屏風」
「紅白梅図屏風」は光琳晩年の代表作です。屏風の左右には紅白の梅の花を、上部から下部に向けて末広がりに川を描いています。二曲双一の屏風の形式を利用した対称性を強く意識した作品です。梅の幹はたらしこみの技法が使用されており、濃淡で木肌の凹凸が表現されています。
梅の花は「光琳梅」、川の渦巻のような独特の模様は「光琳波」として後に意匠化され、着物や和菓子などにも使用されることになりました。近年になっても科学調査がなされており、技法、素材、主題が今でも多くの人々の間で議論されています。
「風神雷神図屏風」
「風神雷神図屏風」は光琳の作品の中でも特に重要視される作品の一つです。重要文化財に指定されています。琳派の祖といわれる、17世紀を代表する絵師・俵屋宗達が手がけた傑作「風神雷神図屏風」を模作した作品です。
宋達の作品より屏風の寸法は少し大きめですが、風神雷神はほぼそのままの大きさです。細部には独自の解釈が加えられており、風神雷神の色調は明るくし視線が交わるように、さらに雲は大きく、濃く描かれています。
まとめ
尾形光琳は琳派を確立させた江戸最大の芸術家です。絵画芸術だけではなく、後世の日本文化にも多大なる影響を与えました。
現在でも各地で展覧会が開かれ、作品の研究が進められるなど、今なお人々の心を魅了し続けています。
尾形光琳は国内外での評価も高く、買取査定の評価が高い作家の一人です。キズや汚れがついた作品であっても、作品によっては高値で取引されています。尾形光琳の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
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