日本画家・奥田元宋。風景画で新朦朧派を確立
奥田元宋(おくだ・げんそう)は、明治に生まれ戦後の日展を中心に、晩年まで精力的に活躍した日本画家です。水墨画とヨーロッパの色彩を融合し、自身の内面を描き出した元宋独自の技法は「新朦朧体」と呼ばれています。また「元宋の赤」と呼ばれる独特な赤色で表現した風景画は、見る人に鮮烈な印象と深い感動を与えます。
日本画の道を確立するまでに紆余曲折の人生を送った奥田元宋。この記事では、そんな日本画家・奥田元宋の生涯と、作品の魅力についてご紹介します。
日本画家・奥田元宋のプロフィール
▲奥田元栄が生まれ育った三次市の街並み
広島生まれの奥田元宋
奥田元宋は、1912年、広島県双三郡八幡村(現在・三次市)に生まれました。本名は厳三(げんぞう)といいます。
小学校4年生の頃、図画教師・山田幾郎の影響で絵を描きはじめ、中学に入ると洋画家・美術評論家の斎藤与里の講習会などに通い油絵を学びます。
1930年、18歳で上京。同郷で遠縁にあたる日本画家・児玉希望に師事し、内弟子として画家生活に入りました。
絵画技術に迷いながら、ひたむきに日本画の道を進む
自身の絵画技術に不安を感じた元宋は1933年、児玉希望のもとを出奔してしまいます。
文学や映画に傾倒し、一時は脚本家を目指した元宋。その後、1935年に再び外弟子として門下に戻ることが許されました。
翌年開催された文展監査展で「三人の女性」が初入選を果たし、本格的に画家として再出発します。
1937年の児玉希望画塾第1回展では外弟子に降格されていたものの「舞踏場の一隅」で塾賞を受賞します。この頃、児玉から「成珠」という画号を与えられていましたが、中国宋元絵画への憧れが強かったのと、本名にちなんだ「元宋」を使うようになりました。
1938年、第2回文部省美術展覧会(新文展)にて「盲女と花」が特選を受賞します。絵画の道を順調に進んでいけるかのように思われましたが、第二次世界大戦の戦況悪化に伴い、1944年には郷里へと疎開をすることになります。
郷里で風景画に目覚め、独自の色合いを活かした風景画を確立
皮肉にも、戦争での郷里への疎開が奥田元宋の絵画人生に大きな影響を与えました。
初期には風俗人物画や花鳥画など、様々なモチーフを幅広く描いていましたが、戦時下では自由に描くことが許されず、古典資料もモデルも不足していました。元宋は故郷・三次の自然を写生することに没頭し、風景画に目覚めます。
1949年の日展で、三次市にある丘付近に月が昇るさまを描いた「待月」が特選と白寿賞を受賞、風景画家として評価されるようになりました。「待月」が出発点となり、風景画の中で表現の道を模索していきます。
1975年、63歳で描いた「秋嶽紅樹」は、木々を燃えるような赤で描いています。見る人に衝撃を与えたこの作品は、内面の情感を赤に託した重厚な作品で「元宋の赤」と称されるようになりました。それ以降は自然の風景を赤で表現することに傾倒していきます。
70歳を過ぎた頃から、屏風や襖絵など、日展に出展している作品よりもさらに大きな画面の絵画を手掛けるようになりました。1996年、84歳で京都・銀閣寺(慈照寺)の大玄関の襖絵、弄清亭の障壁画を完成させます。
2003年2月15日、元宋は90年の生涯に幕を閉じました。
奥田元宋の作品の特長。風景画に赤で内面を表現
▲奥田元宋がモチーフにした森や木々
風景を幻想的に描く表現・新朦朧体を確立
奥田元宋は写生を通じて風景と対話をしながら、時に荒々しい姿、時に心休まる姿など、四季折々の自然の姿を描いています。
1950年代の後半の作品ではフランス・ナビ派の画家、ピエール・ボナールに影響を受け、筆で絵具を置き重ねるような洋画風の表現を追求していた元宋。やがて伝統的な写生に基づく風景画から、日本画の画材を使用した後期印象派のような表現へと移行していきます。
後期の元宋の作品をよく見ると、彩色した上から薄く白い絵具を塗り重ねているのが分かります。はっきりと輪郭が見えない霧のような表現をすることで、元宋の心の内が描かれているといわれます。
こ大気が湿ったような幻想的表現は「新朦朧体」と呼ばれる、元宋の特徴的な表現方法。
元宋は「写生に基づいていない絵は真実味に乏しいし、写実一辺倒の絵では芸術性の高さに欠ける」と残しています。
力強さや畏怖を感じさせる「元宋の赤」
1975年、元宋が63歳で描いた「秋嶽紅樹」は、山や木々の自然風景を燃え上がるような赤で表現しました。この斬新な色彩は「元宋の赤」と呼ばれ、見る人に大自然の力強さや畏怖と、元宋の内に秘めた心を感じさせます。
メインの赤色のほか、アクセントとして用いた色で、元宋はさまざまな精神性を表現しています。例えば空に鮮やかな青色を置くことで赤とのコントラストを強め爽やかな印象を、空を黒く表現することで何物も寄せ付けない険しさを表現します。金や胡粉などを使用した作品は、自然のものとも異界のものともつかない神秘的な印象を与えます。
奥田元宋の評価。文化勲章など多くの賞を受賞
奥田元宋は、明治から平成にかけて活躍した日本画家です。
近代ヨーロッパの鮮やかな色彩表現と日本画を融合して、日本的風景画に高い精神性を表現する独自の「新朦朧体」を確立しました。
晩年になるにつれ屏風や障壁画などの大きな画面のものも手掛けるようになり、銀閣寺(慈照寺)の襖絵も描いています。
1976年、元宋は同郷の人形作家・川井小由女と結婚。郷里である三次市には、夫婦の名前を冠した「奥田元宋・小由女美術館」があり、元宋の日本画と小由女の人形が展示されています。自然と芸術の共鳴を目指した美術館には、日々多くの人が訪れています。妻の小由女が2020年に文化勲章を受章したことで、文化勲章を受章した初めての夫婦となりました。
代名詞である「元宋の赤」が使われた作品はもちろん、特に「太陽」のモチーフが描かれた元宋の作品は人気があります。直筆作品も高価買取が期待できます。
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奥田元宋の代表的な作品
奥田元宋の代表的な5つの作品をご紹介します。
奥入瀬
青森県十和田市にある、奥入瀬渓流の春を描いた作品です。鮮やかな新緑と、今にも水の音が聞こえてきそうなほど勢いのある水流が春の生命力を感じさせます。奥入瀬の自然美を愛していた元宋は、ほかにも奥入瀬を舞台にした四季折々の作品を制作しています。特に秋の奥入瀬には特別な思いを抱いており、何度も写生をしに奥入瀬を訪れたといいます。
待月
1949年に制作された作品です。この作品が日展で特選を受賞したことで、元宋は風景画家としての道を歩んでいくことを決意しました。
故郷である三次市を流れる馬洗川付近の松林に、今にも月が昇る様子が描かれています。
初期は月をモチーフにした作品を多く描いていました。1970年頃からまた月を重要なモチーフとして描いた作品が増えていきます。
広島県立美術館に所蔵されています。
磐梯
そびえたつ磐梯山に、雪が積もる様子を描いています。暗い色で描かれた空と木々が、白い山とのコントラストを強調し、静かで力強い雰囲気を醸し出しています。
磐梯山と猪苗代湖は、元宋が好んで描いたモチーフの一つであり、晩年には真っ赤な紅葉と、雪が積もる磐梯山という、「元宋の赤」を使用した作品も描いています。
この作品は1962年に新日展文部大臣賞を、さらに翌年に日本芸術院賞を受賞し、文化庁買い上げとなりました。
磐梯朝輝
磐梯静日
まとめ
「元宋の赤」と呼ばれる独特な赤を使用し、風景画の中で濃い精神性を描いた奥田元宋。圧倒するような鮮烈な赤は、自然への畏怖を感じさせ、見る人を惹きつけてやみません。
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