陶芸家「川喜田半泥子」。その作風と代表作をご紹介
明治から昭和にかけて活躍した陶芸家、川喜田半泥子(かわきた はんでいし)。個性的な風合いの茶碗で知られ、「東の魯山人、西の半泥子」と評されることもあります。しかし彼自身は芸術活動を「趣味」と位置付けていたため、生涯で一度も作品を売ることはしなかったとのこと。
今回は、そんな少し変わった経歴を持つ川喜田半泥子の生い立ちや作品の特長・評価・代表的な作品についてご紹介します。
川喜田半泥子の生い立ち
▲川喜田半泥子が頭取を勤めた、三重県津市の百五銀行
豪商の家に生まれ、尋常中学校にて藤島武二に洋画を学んだ
川喜田半泥子は、1878年(明治11年)大阪で15代続く木綿問屋の家に生まれました。本名は川喜田久太夫政令、幼名は善太郎でした。翌年、祖父・父が相次いで他界したため、1歳で家督を継ぎ、川喜田家16代当主となります。川喜田半泥子は、少年期から焼き物に興味と関心を示していたと言います。中学生の頃から、ガラクタ屋の店先で陶芸作品や陶器類をじっと見つめていたこともあったそうです。また、三重県尋常中学校に赴任中であった藤島武二に洋画を学びました。
あくまで「趣味」の立場を貫いた。三重県財界の重鎮として活躍
川喜田半泥子は、優れた陶芸作家として知られていますが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯に一作品も売ることがありませんでした。彼の本業は事業家で、東京専門学校(現早稲田大学)卒業後の1903年(明治36年)には、百五銀行の取締役に就任。1909年(明治42年)津市議会議員に当選、翌年三重県議会議員当選しています。
さらに1919年(大正8年)には百五銀行・第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めました。地元の中小銀行を買収・合併し、1922年には吉田銀行、1925年には河芸銀行、1929年には一志銀行を買収。1943年には勢南銀行を合併して規模を拡大。百五銀行を三重県有数の金融機関へと成長させました。また、三重合同電気社長や明治生命の監査役などの要職も務めています。
自ら窯を開き、50歳を過ぎてからは作陶に没頭。陶芸家としての顔
財界で要職につき、陶芸家としてはあくまで「趣味」の姿勢を貫いた川喜田泥子ですが、陶芸への思いは非常に強いものでした。自ら釜を開き、当初は陶工につくらせていたものの納得がいかず、50歳を過ぎてから自ら本格的に作陶するようになったのでした。制作した作品は3万点以上にのぼると言われています。
1912年(大正元年)、川喜田半泥子は三重県津市の南にある千歳山を購入しました。そして、この土地の土が陶土であることを知ると、千歳山の土で楽焼を試みます。翌年には中国・朝鮮半島を旅行し、各地の陶土を持ち帰っています。1915年(大正4年)になると千歳山に山荘を構えて移り住み、1925年(大正14年)に石炭窯を築きました。さらに1932年には千歳山南端に小山冨士夫設計の二袋煙突式薪窯を開設。このとき、小山冨士夫や真清水蔵六らが来て初窯を焚きましたが、失敗に終わったとされています。
その後、1934年(昭和9年)、自らの設計で三袋の登窯を築き、初窯に成功。この窯を作る際には、多治見や瀬戸の窯を視察したり、朝鮮や唐津の窯跡を見学したりしたといいます。同年、陶芸家の加藤唐九郎が千歳山を訪れ、三袋の登窯の出来栄えについての意見を交わし、「これなら焼ける」との折り紙がついたとされています。
さらに1937年(昭和11年)には、初めて赤絵を試みています。また、東京星岡山の茶屋で「無作法師作陶展」を開催。1941年(昭和16年)には千歳山に三笠宮を迎え、貞明皇太后に茶碗4椀、水差し1口を献上しました。また、翌年には、荒川豊蔵や金重陶陽・三輪休雪ら人間国宝三人と「かねひら会」を結成し、全国の陶芸家たちと交流を持ち、その活動を支援しました。
終戦後、1946年(昭和21年) になると、千歳山が進駐軍に召し上げられたため、この窯を長谷山に移し、広永陶苑を創設しました。また、この地に質素な住居も建設。同年2月に百五銀行の取締役頭取を辞して取締役会長に就任したこともあり、俗世間から離れて作陶に没頭しました。
おおらかで自由な作風。川喜田半泥子の作品の特長
川喜田半泥子は、10代のころから焼き物に関心を持っていました。しかし事業家としての人生を生きた彼は、あくまで陶芸は趣味と位置付け、多忙な日々の合間を縫って芸術を学び、風雅に親しんできました。そんな彼が本格的に作陶をし始めたのは50歳を過ぎてからのこと。 自ら窯をつくり、3万点にも及ぶ作品を制作したと言われています。作品の中でも特に多いのは抹茶茶碗で、数多くの名作を残しています。
川喜田半泥子の作風は、「天衣無縫」「自由奔放」などと表現されます。伝統的な製法に縛られず、歪みや窯割れをも生かした自由でおおらかな作品は、彼の人柄をそのまま投影しているといわれています。作品が作られた年代によってさまざま土地の土・窯を使っているので、作風に違いが見られるのも面白いところです。
「東の魯山人、西の半泥子」と評された、川喜田半泥子の評価
川喜田半泥子は芸術活動に対してあくまでも趣味としての立場を貫いていたため、生涯で一作品も売ることがありませんでした。できあがった作品はすべて、知人・友人に贈っていたといわれています。しかし、彼の作品は「東の魯山人、西の半泥子」「昭和の光悦」などと呼ばれて高く評価されており、現存するものは高値で取引されています。年代により作陶した数が異なり、作陶数の少ない年代のものは特に高評価がつく傾向にあります。
また、彼は「財団法人石水会館」を設立し、同名の文化施設を津市中心部の丸の内に建設して文化事業を支援しました。このように、川喜田泥半子が近代陶芸界に残した功績は非常に大きく、現在でも評価される所以となっています。
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川喜田半泥子の代表作
川喜田半泥子の代表的な作品を3つご紹介します。
阿ヶ津き茶碗
喜寿茶盌「喜び」
茶碗
まとめ
明治に生まれ、50歳になるまでは実業家・政治家としても活躍した陶芸家、川喜田半泥子。作品の中には高値がつく可能性のあるものも多数。傷や汚れがついていても、評価が落ちないこともあります。川喜田半泥子の作品をお持ちの方は、ぜひ一度専門家の鑑定を受けてみてはいかがでしょうか。
古美術八光堂