江戸時代の陶工・日本画家、尾形乾山。琳派の意匠を焼物で表現
尾形乾山(おがた・けんざん)は江戸時代を代表する陶工・日本画家です。兄は琳派の代表絵師・尾形光琳で、乾山も琳派の一人と数えられています。
乾山の制作した焼物は水墨画のような「わび・さび」を感じる銹(さび)絵から、琳派の意匠を使い大胆な絵付けを施した作品など多岐に渡ります。
自由な発想と高い文化的素養でその後の京焼に大きな影響を与えた尾形乾山。この記事では、そんな乾山の生い立ちや作品の特長、評価についてご紹介します。
尾形乾山のプロフィール。琳派の陶工・日本画家
▲尾形乾山が生まれ育った京都の街並み
尾形乾山の生い立ち。勉強熱心で質素な生活を送る
尾形乾山は、1663年に京都有数の呉服商・雁金屋の三男として生まれました。6歳上の兄は琳派の代表作家・尾形光琳です。
派手好きな光琳とは対照的に読書家で勉強熱心だった乾山は、禅宗・黄檗禅に傾倒し、質素な暮らしをしていました。裕福な呉服屋で育ったため、幼い頃から様々な芸術に触れ、自由な生活をしながら文化的素養を養っていきます。1687年、25歳のときに父が亡くなり莫大な財産を相続しますが、内向的な乾山はその2年後に洛西双ヶ岡に習静堂という書屋を構えて隠遁、文人生活に入ることにします。
陶工として出発。琳派の意匠化に成功
乾山が構えた書屋の近くには、京焼の祖といわれる陶工・野々村仁清の窯がありました。陶芸の心得があった乾山でしたが、仁清から本格的に陶芸を学ぶことになります。
1899年、公卿二条綱平から鳴滝泉谷の山荘を与えられ、乾山は窯を開いて陶工として生計を立て始めます。この窯が京都の北西である乾の方角にあったため、窯の名前を「乾山」としました。やがて「乾山」は出来上がった作品の商標となり、自分自身も雅号として使用しました。乾山は陶工として名が知られるようになり、仁清に続いて京焼を発展させていきます。
当時、本格的に画家として活動し始めた兄・光琳は、琳派の創始者として屏風絵などを制作、人気絵師となっていました。乾山は琳派の画風を意匠化、焼物にすることに成功し、人気を博しました。
光琳との合作を多数制作。晩年は江戸へ
1712年、乾山は鳴滝泉谷の窯を閉じ二条丁字尾町に移住、共同窯を借りながら多くの作品を手がけていきます。乾山が器を作り、光琳が絵を描くといった合作の作品が多く作られたのもこの時期でした。乾山の器は懐石具を中心に制作され、洗練された中にも素朴な味わいを感じさせるものや、自由な絵付けで、新しい京焼の世界を作り出していました。
1716年、光琳が亡くなった頃、乾山の陶業も不振に陥っており、以降は20年ほど苦しい生活が続きました。
1731年、輪王寺の宮の紹介もあり、江戸・入谷に移住した乾山は、開窯して作陶を続けました。1737年には下野国佐野に招かれて陶芸指導を行っていたとされています。乾山の作品は時期によって制作していた場所が違うことから、この時期の作品は「入谷乾山」「佐野乾山」と呼ばれています。乾山は陶芸の指導も熱心に行っており、江戸で「陶工必用」を、佐野で「陶磁製方」という陶法伝書を執筆しました。もともと漢詩や書を愛し、陶磁器にすぐれた書を残していましたが、晩年は絵画へも力を注ぎ、洗練された風情の日本画を残しています。
1743年、乾山は江戸で亡くなりました。81歳の生涯でした。
尾形乾山の作品の特長
▲焼物のイメージ
自由な発想の絵付けと素朴な味わい
尾形乾山の活躍した江戸初期は、京都でも焼物の生産が始まった時代でした。乾山窯も伝統的な京焼の系譜にある窯のひとつです。
初期の鳴滝泉谷の窯では、さまざまな種類の器を作成していましたが、中でも特長的なのが「角皿」と「蓋物」です。
角皿は、皿自体を四角いキャンバスに見立てて絵を入れています。皿を絵で飾るのではなく、絵画をそのまま器とするという自由な発想が感じられます。書を好み、漢詩や和歌に精通していた乾山ならではの発想といえるでしょう。
また籠や漆器からイメージを得たといわれる丸みを帯びた「蓋物」も個性的。外側は琳派らしい装飾的な絵付けがなされていますが、蓋を開けると外側とは対照的に中はモノトーンの落ち着いた色合の意匠が現れます。
京焼の伝統を守りながら、自由な発想で施された絵付けや、洗練された中にある素朴な味わいが特長です。
色彩豊かな琳派様式の意匠を用いた
鳴滝の窯を閉じ、京都市内に移住した後は、懐石具を多く手掛けています。色彩豊かで、立体と平面の垣根を越えた遊び心あふれる琳派風のデザインで成功を収めました。
乾山自身は派手好きな兄とは正反対の慎ましいものを好む性格でしたが、仲が良く多くの合作を残しています。乾山が器を作り、光琳がそこに絵付けをしました。
乾山の作品は、兄の光琳や師匠の仁清と比べると一見地味に見えるかもしれませんが、「わび・さび」を感じさせる作風といえるでしょう。
尾形乾山の評価は?琳派として明治期に再評価
尾形乾山の焼物は、存命中の江戸時代初期には既に名が知られており、野々村仁清と並び京焼の二大名工とされています。
その功績は大きく、光琳の豪奢な復興大和絵の画風の意匠化や、光琳との合作の絵皿など、陶器に絵画性を与える革新的な作風は後の京焼に大きな影響を与えました。
得意とする白化粧地鉄絵や染付の他にも、京都で初めての磁器の焼出や、中国や東南アジア、ヨーロッパなどの海外磁器の写しなど、芸術に対して常に挑戦する姿勢を感じることができます。
江戸に下ったあと、京都での乾山の系譜は途絶えてしまいます。しかし、明治期に日本画家・酒井抱一(さかい・ほういつ)により光琳顕彰活動が行われたことで、装飾芸術として琳派が評価されるとともに、乾山も同様に再評価されることになりました。思想家の岡倉天心(おかくら・てんしん)は「光琳より乾山は偉大である」と高く評価しています。
抱一から始まり、明治期の陶工・三浦乾也(みうら・けんや)など、近代の陶工にまで「乾山」の精神は受け継がれています。
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尾形乾山の代表作
尾形乾山の代表的な6つの作品をご紹介します。
色絵竜田川図向付
紅葉に型作りされた皿の上に、金彩で縁取られた赤、黄色、緑で重なり合う紅葉と、銹絵(さびえ)で竜田川の流水文が描かれています。紅葉の鮮やかな色彩と、水しぶきの躍動感が見事な作品です。
十客すべての高台に「乾山」の名が記されています。しかし、明らかに筆跡の違うものがあり、複数の職人によって作られたものと考えられています。制作時期の特定は難しいものの、工房という形式を採用していた二条丁子屋町時代の作品とされています。
花籠図
江戸に移住し、日本画に力を注いでいた晩年の作品です。
墨で描かれた3つの籠には、ススキ、菊、女郎花、桔梗と、それぞれ鮮やかな色彩で風そよぐ秋の草花が入れられています。白い露をたたえたみずみずしさとは対照的に、うっすらと暗い霧が立ちこめ、寂しげな風情も感じられます。
上部には風に吹かれたような流れる筆致で、三条西実隆の「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」という和歌が記され、秋の華やかさと詫びた季節を表現しています。
乾山の日本画における代表作であり、重要文化財にも指定されています。
銹絵観鴎図角皿
光琳・乾山兄弟合作の一つで、1709年~1716年までに制作された作品だと考えられています。
型作りされた正方形の白化粧下地楽焼質角皿の表には、光琳が中国宋代の詩人・黄山谷が水面に遊ぶ鴎二羽を眺めている様子を描き、裏面には乾山が書風の銘款を記しています。二人の合作は20点ほど伝わっていますが、光琳の洒脱な筆致と乾山の書の見事さにより、代表作として知られています。1984年、重要文化財として指定されました。
乾山金銀彩梅花文茶碗
色絵角鉢
銹絵菊紋角皿
まとめ
多くの陶磁器と、日本画を残した尾形乾山。琳派の作家らしく、自由で大胆な発想から生まれた乾山の作品は、茶人を始めとして、今でも多くの人々に愛され続けています。
尾形乾山は国内外での評価も高く、買取査定の評価が高い作家の一人です。キズや汚れがついた作品であっても、作品によっては高値で取引されています。尾形光琳の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
古美術八光堂