「用の美」を愛した陶芸家・濱田庄司の生い立ちと作品
濱田庄司(はまだ・しょうじ)は昭和に活躍した陶芸家です。東京に育ち、京都や英国、沖縄などさまざまな土地で学んだのち、益子を拠点に制作を続けました。職人が作った生活用品の中に美しさを見出す「民藝運動」を通して、日本のみならず中国や朝鮮半島の民芸品を調査していました。作品や活動が高く評価され、人間国宝として認定されています。
民藝運動で得た美意識を自身の作品にも落とし込み、素朴で親しみやすい作品を作り続けた濱田庄司。この記事では、そんな濱田庄司の生い立ちや経歴、作品の魅力についてご紹介します。
濱田庄司のプロフィール
▲濱田庄司が生まれ育った神奈川県川崎市
まずは濱田庄司のプロフィールについてご紹介します。
濱田庄司の生い立ち。多くの人々と交流を深め陶芸を学ぶ
濱田庄司は1894年、神奈川県川崎市に生まれました。本名は象二。生家は東京で文房具を経営していました。高校時代から陶芸に興味を持ち、1913年に東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科に進学。陶芸家・板谷波山の指導のもと陶芸の基礎を学びます。1916年に卒業後、京都市立陶磁器試験場に助手に。同じ東京高等工業学校出身で2年先輩の河井寛次郎と共に釉薬の研究を行いました。この時期は庄司の人生に影響を及ぼすたくさんの人々との出会いがあり、陶芸への見識を深めていきます。
後に庄司・河井と共に「民藝運動」を推進していくことになる思想家・柳宗悦や、陶芸家の富本憲吉、バーナード・リーチに出会ったのもこの頃です。
イギリスで日々の暮らしの品々に大きな影響を受ける
庄司は26歳の頃(1920)、イギリスに帰国するリーチに同行し渡英。英国の西南にあるセント・アイヴスで西洋初の登り窯を建設し作陶をしながら、英国の伝統的な陶芸技法を学びました。
滞在中に訪れたロンドン南方の芸術家村・ディッチリングでは、染織家のエセル・メーレや詩人で彫刻家のエリック・ギルなどと交流。都会から離れた美しい村で創作をしながら、日々の暮らしにも質の良い品を使って暮らしている人々に、創作態度と生活が融合している理想の姿を見て大きな感銘を受けたのでした。
1924年に帰国後は沖縄の壷屋窯などで昔ながらの仕事について学びながら、作陶の拠点は栃木県益子町に移します。益子には江戸後期の窯場の仕事が残り、かねてより庄司が関心を寄せている土地でした。
生涯を通じ創作と民藝運動を積極的に行う
庄司は作陶のかたわら、「民藝運動」にも力を入れていました。
1926年、柳宗悦・河井寛次郎と共に「日本民藝美術館設立趣意書」を発刊します。これにより民藝運動が本格的に開始。民藝運動とは、無名の職人によって作られた日常的な暮らしの中で使われる民衆的工芸品に美を見出す活動です。この思想は、庄司の創作活動の基盤となるものでした。
民藝運動の中心人物たちと共に、1927年には東北・山陰・九州を、1934年には中国地方・九州に民芸調査旅行を行います。1936年には東京・駒場に日本民芸館を開設。民芸品収集の為に朝鮮半島・中国へと足を運ぶなど、積極的に活動を続けました。
陶芸家としての制作も続けており、1942年には栃木県益子に大型の窯を建て作品作りに没頭します。その後1949年~1974年にかけて作品と民藝運動が評価され、さまざまな賞を受賞します。中でも1955年には「人間国宝」に認定、1964年には紫綬褒章受章という栄誉を得ています。
柳宗悦の死後は日本民芸館館長となり、1974年には「日本民芸協会」会長就任。
「用の美」を追求する民藝運動と、純朴で親しみのある陶器を作り続けた庄司は、1978年84歳でこの世を去りました。
濱田庄司の作品の特長
▲民芸陶器イメージ
日本・世界各地の陶器の技術を活かした濱田庄司の作品の特長についてご紹介します。
益子の土を原材料に親しみやすい作品を制作
濱田庄司の作品からは親しみを感じさせ柔和な雰囲気が漂っています。益子の土でできた厚手の素地を使い、手ろくろでの成形にこだわっていました。手ろくろの技術は京都市立陶磁器試験場時代に陶芸家・近藤悠三から学びました。
イギリス・ディッチリングで創作と生活の融合を体験したことや、沖縄で陶工の昔ながらの仕事を学んだり、江戸後期の窯場が残る益子での作陶をしたりなど、日本各地・世界各地の民芸陶器を熱心に調査・学習した経験を自身の作品に落とし込んでいます。
釉薬を使って民藝調の素朴な絵付けを施す
庄司は、扁壺や茶碗・湯呑み・大皿などさまざまな陶器を作成しました。シンプルなフォルムの器に独自の技法を使い、民藝をモチーフとした素朴な装飾を行います。特に、釉薬(うわぐすり)で文様を作る技法を得意としていました。柿釉や黒釉などの多彩な釉薬を柄杓でかける「流し掛け」と、「唐黍紋(とうきびもん)」などの絵付けが代表的です。
流し掛けは主に大皿に使われた技法で、直線的なものや流線形のものなどさまざまなものがあります。唐黍紋は湯呑に使われることが多い技法です。沖縄でとうきび畑を見て学んだ唐黍紋の技法は、庄司作品のトレードマークとされています。
濱田庄司の評価は?作陶と民藝運動で人間国宝に
濱田庄司は昭和を代表する陶芸家で、作品と民藝運動が高い評価を受け人間国宝にも認定されています。民藝運動とは、日用品に「用の美」を見つけ出そうとする運動のことで、自身の作品にも投影されました。
「民芸」という言葉は庄司らが提唱した民藝運動から始まった造語であり、今では広く一般に使われています。このことからも民藝運動の社会への影響を感じることが出来ます。
作品は芸術性が高く人気があり、現在でも高値で取引されています。相場は最安値の茶碗で約2万円から、最高値の大皿だと30万円ほどになります。貴重な作品や大きいものはさらに高額の数百万円の値が付くことも。
作品は、日本民藝館(東京・駒場)や益子陶芸美術館(栃木県益子町)などで展示されています。民藝館では庄司が各地で集めた工芸品も併せて鑑賞が可能です。益子陶芸美術館の敷地内には自宅の移築と生前愛用していた登り窯が復元されており、庄司の生活を感じることができます。
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濱田庄司の代表作
最後に濱田庄司の代表作をご紹介します。
「花瓶 鐵絵花瓶」
1970年頃の作品です。どっしりとした花瓶で、柔らかな印象を与える白い部分は益子伝統の白色の釉薬がかけられています。濱田庄司のトレードマークである黍文や笹文が鉄釉で描かれているのが特長です。
「茶碗 塩釉三彩茶碗」
手ろくろで制作した素朴な形の茶碗に、岩塩を原料とした塩釉を施した作品です。ドイツの技法であった塩釉は、イギリスでの活動時期に習得した技法です。青・白・茶の複雑な釉調が茶碗に軽やかな印象を与えています。
「皿 鐵絵角皿」
約19cm四方、高さ5cmの正方形に近い形の角皿に、鉄釉を用いてトレードマークである黍文と笹文が描かれています。落ち着いた色合いで親しみやすく、民芸調の味わいが感じられる作品となっています。
「鐵絵耳付花瓶」
「掛合釉丸紋花瓶」
「柿釉赤絵丸紋角瓶」
「琉球窯赤絵茶碗」
まとめ
濱田庄司は、益子を拠点にして親しみやすい民芸調の作品を多く残しました。民藝運動を中心とした「用の美」を追求することで育んだ美意識は、現代の人々の心にも脈々と受け継がれています。
濱田庄司は国内外での評価も高く、買取査定の評価が高い作家の一人です。キズや汚れがついた作品であっても、作品によっては高値で取引されています。濱田庄司の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
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