近代陶芸の先駆者・板谷波山。独自の「葆光彩磁」で陶芸を芸術の域に
板谷波山(いたや・はざん)は、明治から昭和にかけて活躍した陶芸家です。陶芸家として初の文化勲章を受章し、名実ともに日本を代表する陶芸家として知られています。葆光釉(ほこうゆう)という独自の釉薬(うわぐすり)を開発し、内側から発光するような幻想的な色合いの端正で格調高い作品の数々を制作しました。
波山は、職人ではなく芸術家としての自負を持ち、陶芸の社会的地位を高めた先駆者として、生涯陶芸への情熱を失いませんでした。この記事では、そんな波山の生い立ちや作品の特長、評価についてご紹介します。
板谷波山のプロフィール
▲板谷波山が彫刻を学んだ「東京藝術大学」
まずは板谷波山のプロフィールについてご紹介します。
板谷波山、陶芸家を志すまで
板谷波山は、1872年茨城県下舘市(現・筑西市)にある醤油醸造業を営む家庭に生まれました。本名は嘉七(かしち)といいます。
波山は初めから陶芸家を志していたわけではありませんでした。1887年に上京し聖上学校へ入学。翌年軍人を志し陸軍士官学校を受験するも不適合とされます。1889年には東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学し彫刻を専攻。当時校長であった岡倉天心から芸術の心を受け継ぎ、高村光雲から彫刻の技を学びました。
厳しい陶芸家への道。独自の技法で高まる評価
東京美術学校を卒業後、石川県工業学校の彫刻科主任教諭に着任します。当時新設校だった石川県工業学校は、西洋の窯業技術や釉薬の研究を積極的に行い新しい技術を取り入れていました。
本格的に陶芸に取り組んだのは20代の半ば頃からです。1903年、東京都田端に自身の窯を作り、故郷の筑波山にちなんで波山と自身を名づけ、陶芸家としてキャリアをスタートさせます。しかし最初は生活が苦しく、東京高等工業学校窯業科の嘱託教師を兼務しながら活動をしていました。そこでは後に日本国宝となる陶芸家・濱田庄司など、多くの後継を育てました。
初窯の作品が完成すると、波山の評価はみるみるうちに高まっていきます。
波山の作品は独創的な図案と釉薬の下の素地に直接絵具をしみこませる「葆光彩磁」の手法で、他に類を見ないものでした。
経歴としては一見遠回りをしたように見えますが、美術を学んだことが作品の芸術性を高めることに繋がっていたのです。
陶芸家として初の文化勲章を受章
その後も波山は精力的に制作を続け、数々の公募展へ出品・受賞を重ねていきます。1917年、日本美術協会展で金牌を受賞。1929年には工芸家として初の帝国美術院会員となりました。1934年には帝室技芸員に任命され、37年には帝国芸術院会員に名を連ねます。
1945年に空襲で自宅や工房が全焼するという不幸がありながらも、知り合いの工房などで制作を続け、1950年には工房を再建するに至ります。
1953年には陶芸家として初の文化勲章を受章という栄誉に輝きました。1960年には人間国宝に推薦されるも「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」と言い、辞退しています。
職人ではなく芸術家としてこだわりを持ち続けた波山。1963年10月10日、92歳のときに直腸がんで息を引き取りました。この年には「椿文茶碗」を制作しており、最期まで陶芸への熱意を持ち続けていたことが分かります。
板谷波山の作品の特長
▲陶芸のイメージ
板谷波山の作品の特長について解説します。
自由な感性で絵画のような格調高い陶芸作品を制作
板谷波山は、まるで絵画のような美しい陶芸作品を制作しました。フォルム自体はシンプルで上品なものが多く、器それ自体が端正で格調高さを感じさせるような優美な美しさを備えています。独創的な図案も大きな特長で、ヨーロッパで流行していたアール・ヌーヴォー様式や東洋の伝統的な意匠、同時代の近代日本芸術から着想を得たものなど、様々なものを取り入れています。日本古来の意匠に囚われず、自由な感性でモチーフを選んでおり、チューリップやアマリリスなどの従来使われていない花を描きました。
波山の作品に対するこだわりは強く、厳しい基準を満たせないと次々と破棄されました。その中で年間約20点の選ばれたものだけが世に送り出されたといわれています。
独自の「葆光彩磁」技法で唯一無二の芸術作品に
波山作品の最大の特長は、「葆光彩磁(ほこうさいじ)」という技法です。葆光彩磁とは、素地に描写・着色した後、「葆光釉(ほこうゆう)」と呼ばれる独自のツヤ消し釉薬をかけて焼成する技法のこと。波山自身が命名しました。仕上げに施すことで輪郭をやわらかく描写することができ、ソフトで微妙な色調の幻想的な作品を作り上げました。
この技法は、明治の終わり頃から試作を続け1914年に完成したといわれています。葆光釉は現在でも再現不可能とされており、茨城県にある波山記念館に開発資料が残されています。伝統的な技法と独自に開発した技法を組み合わせ、芸術作品としての陶芸に全身全霊を捧げました。
板谷波山の評価は?陶芸を芸術作品に押し上げた陶芸家
それまでの陶芸家は職人として定義されていました。しかし板谷波山は自らを職人ではなく芸術家・アーティストと位置づけ、日本で初めて芸術家として認知された陶芸家となりました。高い評価は人間国宝に推挙されるほどでしたが、自身は芸術家であるとして辞退しています。ストイックな生き方にファンも多く、2004年には『HAZAN』として映画化もされています。
1917年に制作された「葆光彩磁珍果文花瓶」は、陶芸作品のなかではじめて重要文化財に指定されました。
芸術家として評価が高い波山の作品は、一体どれほどの価値があるのでしょうか。
陶芸は、誰が制作したものかによって価値が決まります。波山の作品は高い人気がありコレクターも多いため、買取価格が高額になると予想されます。最低でも数十万円、高いと数千万円と、非常に高評価が期待できます。
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板谷波山の代表作
最後に板谷波山の代表作についてご紹介します。
「葆光彩磁草花文花瓶」
1917年に制作された作品です。丸みを帯びたアール・ヌーヴォーを思わせるフォルムの花瓶に可憐なチューリップを大胆に彫り、葆光彩磁の技術で内側から光を放つような幻想的で柔らかな色彩を施しています。花の向きも1本1本少しずつ変えられており、揺れるような軽やかな動きを感じさせます。
「鳩杖」
波山は、下館に住む80歳以上の高齢者に、自ら御宅に訪問して自作の杖「鳩杖」を贈呈していました。頭部に鳩が飾られている杖は贈る人物の体格まで考慮し、すべて長さが異なるほど丁寧に作られています。波山は号を故郷・下館から見える名山「筑波山」から取ったように下館を深く愛しており、エピソードも多く残っています。
「天目茶碗 命乞い」
1944年に制作された作品です。均整の取れた美しい茶碗に、鮮やかな赤から紫、青から白へとグラデーションを描いています。完璧を求める波山としては出来上がりに不満を感じ、窯から出したばかりのこの作品を割ろうとしていたところを、パトロンの一人である出光佐三が阻止し譲りうけたことから「命乞い」という名が付きました。
「黒飴釉茶碗」
「氷青磁牡丹文香炉」
「裂紋青磁香炉」
まとめ
板谷波山は、生涯芸術家として陶芸への熱意を持ち続け、陶芸を芸術の域にまで押し上げました。作品は近代陶芸界の最高峰ともいわれ、名実ともに日本を代表する陶芸家の一人です。一切妥協を許さず生み出した名作の数々は今でも人々を魅了し続けています。
板谷波山は国内外での評価も高く、買取査定の評価が高い作家の一人です。キズや汚れがついた作品であっても、作品によっては高値で取引されています。板谷波山の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
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