日本画家・橋本関雪。中国文化に通じ、高い技術で新南画・動物画を描く
橋本関雪(はしもと・かんせつ)は、明治に生まれ、大正・昭和にかけて活躍した日本画家です。
中国の南画を下敷きに近代的な感覚を取り入れた「新南画」で豊かな漢詩世界を描き高い評価を得ました。また、50歳以降の昭和期には写実的な動物画を多く残し「猿の関雪」と称されることも。
中国の文化にも精通しており、書画や作庭なども手掛けました。ジャンルを問わず高い技術と深い教養に基づいたさまざまな作品を制作しています。この記事では、そんな橋本関雪の生涯と作品の魅力についてご紹介します。
橋本関雪のプロフィール
▲橋本関雪が生まれ育った兵庫県神戸市の街並み
まずは橋本関雪のプロフィールについてご紹介します。
橋本関雪の生い立ち。父から中国文化を学んだ少年時代
橋本関雪は1883年、兵庫県神戸市に生まれました。幼名は成常、青年となった後は本名を関一(貫一)と名乗ります。関雪という画号は明石藩の儒学者であった父・海関が名付けたもので、藤原兼家の逢坂の関にまつわる故事に由来します。父から漢詩や書画を教えられて育った関雪は、1895年に四条派の画家・片岡公曠に師事した後、17歳で本格的に絵画の道を志します。
竹内栖鳳の下で日本画の基礎を学び、才能が開花
1903年、近代日本画の先駆者であり京都画壇を代表する大家・竹内栖鳳(※1)の主宰する画塾「竹杖会」に入会。日露戦争に従軍したため栖鳳の下で学んだのは実質1年半ほどでしたが、日本画の基礎を学び、才能を開花させていきます。栖鳳のもとにいた頃は上村松園(※2)など多くの若き日本画家たちと交流を深めますが、門を離れた後は孤高の中で制作を行っていきます。
1908年に開催された第2回文展で初入選を果たし、1913年・1914年の文展で二等賞を受賞。画壇での評価を着実に高めていきます。ついには1916年・1917年の文展で連続して特選を受賞するほどとなり、日本画界での重要人物となりました。
この頃の関雪の作風は「新南画」と呼ばれています。新南画とは、中国の南画(文人画)に近代的な感覚を取り入れた新しい傾向の絵画のこと。後期印象派などの近代的な感覚を取り入れながら、ただ対象を描くだけではなく描き手の内面を映し出した作品を制作しました。
(※1)竹内栖鳳
明治から昭和までの京都画壇の中心人物。近代日本画の先駆者として活躍した。
詳しくは「明治から昭和に活躍した京都画壇の巨匠・竹内栖鳳」をご確認ください。
(※2)上村松園
明治から昭和にかけて女性の美しさと価値を「美人画」で表現し続けた女流日本画家。
詳しくは「明治~昭和に活躍した上村松園。女性の美を表現し続けた女流画家」をご確認ください。
晩年は写実的ながら情緒あふれる動物画で評価
新南画で揺るがない評価を得た関雪は、30回以上も中国に渡り、漢詩世界を描いた作品を精力的に発表していきます。
さらに昭和に入り50歳を超えてからは、それまで避けてきた動物画を多く描くようになりました。四条派の流れを汲んだ写実的な画風ながら、関雪らしい情緒あふれる作品となっています。1933年に発表した「玄猿」が昭和天皇に称賛され文部省の買い上げとなるなど、動物画に於いても高い評価を得ています。文展審査員、帝展審査員を経て、1934年に帝室技芸員になるという画壇の中心的人物となっていきました。
関雪といえば作庭も有名です。いくつもの作庭が行われましたが、代表的なのは自身のアトリエ兼邸宅「白沙村荘」で、銀閣寺前に10000平方メートルに及ぶ広大な敷地を持っています。
「庭を造るのも、画を描くのも同じことである」という言葉通り、庭にも中国からの影響と関雪の美意識が強く反映されており、独特の趣を見せています。白沙村荘は現在橋本関雪美術館として残されており、2003年には国の名勝としても指定されています。
1945年2月、61歳でこの世を去ります。前年11月には「香妃戎装」を発表し、精力的に作品し続けた生涯でした。
橋本関雪の作品の特長
▲橋本関雪がモチーフとした猿
新南画から動物画へ。生涯描いたモチーフは多岐に渡る
橋本関雪が生涯描いたモチーフは多岐にわたり、非常に幅が広い作風で知られています。
絵画の道に入りたての頃は「静御前」や「聖徳太子」というような日本的な題材を扱っていました。しかしこの頃には入選を果たせませんでした。
関雪が評価され始めたのは、大正時代に入り「新南画」と呼ばれる作品を描いてからです。父から教わった漢詩や中国文化を下敷きにした文人画家に傾倒し、関雪ならではの新たな絵画世界を拓いていきます。
昭和に入った50代以降には、それまでの作風とは全く異なる写実的な「動物画」を描き、高い評価を得ました。「猿の関雪」と呼ばれたほど、猿を多く描きました。
また晩年には国のために尽くすべく「戦争画」の制作を行っています。
美しいだけではない独自の世界観を築く
関雪の信念は「絵画とは目の前の事物を描くものではなく、画家が想像力を駆使して心に描いた世界で画家の内面を表すもの」とし、数々の名作を残しています。日本画や東洋画の技法を研究し尽くし、新たな解釈で独自の世界観を持った作風は「新古典主義」に分類されます。30回以上中国を訪れ、中国の文化を題材としながら東洋の古美術も深く研究しました。
四条派から学んだ写実性に加え、繊細で妖艶さも感じさせる筆遣いが特徴です。ただ美しいだけではなく、内面を描き取った独自の世界観を日本画で表現しました。
橋本関雪の評価は?新南画・動物画・戦争画いずれも才能にあふれる
橋本関雪は儒学者をしていた父の影響で中国の文化や学問に通じ、東洋の古美術も深く研究していました。中国の文化を題材に、新たな解釈で描く「新南画」を手掛けるようになってから、関雪の評価は急速に高まっていきます。文展では特選を3回受賞しており、その後は審査員に選ばれるまでになりました。
また、晩年には動物画・戦争画も多く残し、それぞれで高い評価を得ています。妻を亡くした失意の中で描いた、黒テナガザルをモチーフにした「玄猿」の評価が特に高く、昭和天皇の直讃を受けて文部省の買い上げとなります。このことから「猿の関雪」と呼ばれるようになりました。
関雪の作品は今なお人気が高く、高額で取引される可能性が高い作家です。内容によっては数十万で取引され、中には数千万の価値を持つ作品もあります。複製画の場合は数万円で取引されることが多いです。
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橋本関雪の代表作
橋本関雪の代表作をご紹介します。
「玄猿図」
1933年に描かれた作品で、昭和天皇に称賛されて文部省買い上げとなった作品です。この作品により「猿の関雪」と称されるようになりました。
墨の濃淡だけで黒テナガザルの毛並みのやわらかさを表現しています。伸ばした手の力強さは、今にも動き出しそうなほど生き生きと感じられます。簡略化した背景からは、空間の広がりを感じることができます。
玄猿は天の猿を意味しており、亡き妻・ヨネへの追悼の思いを込めて描かれた作品といわれています。
「唐犬図」
1941年頃の作品です。美しい毛並みの3匹の犬と赤い牡丹が描かれています。右側に描かれた牡丹と白い犬のコントラストが印象的です。「唐犬」とは外国からやってきた犬のこと。関雪は動物を多数飼育しており、洋犬は30頭もいたといいます。茶色と黒の犬がグレーハウンド、白い犬がボルゾイで、首輪をつけている様子から関雪邸の庭を舞台に描いたものとされています。
「馬図」
荒野にたたずむ一頭の白馬を描いた作品。尾と草原がなびく様子から、そよぐ風を感じることができます。関雪が培った鋭い観察眼と繊細な筆使いで一瞬をとらえた作品であり、観る人の心をつかみます。
大正時代、新南画を手掛けていた頃は「馬の関雪」と呼ばれていたほど、関雪は生涯のうちに馬を多く描いています。
「雨後舟行図」
「喜鵲平安」
まとめ
橋本関雪は、四条派の流れからくる写実性と、自身の深い教養により、生涯を通じて様々なジャンルの作品を手掛けました。30回以上中国を訪れただけではなく、西洋画への興味からヨーロッパへも足を運んでいたそう。心の内面までキャンバスに映し出した関雪の作品は、今なお多くの人々を魅了し続けています。
国内外で高い評価を得る橋本関雪の作品は買取査定の評価が高い作家の一人です。キズや汚れがついた作品であっても、作品によっては高値で取引されています。川端龍子の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
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