陶芸家・荒川豊蔵。志野の再現に人生を捧げ独自の「荒川志野」を確立
荒川豊蔵(あらかわ・とよぞう)は明治に生まれ、昭和期に活躍した陶芸家です。若い頃は苦労を重ねていましたが、とある発見により陶磁器の歴史を塗り替えて人生が一変した人物でもあります。
その発見とは古い志野の陶片を見つけたこと。それまで志野は瀬戸で作られたと考えられていましたが、豊蔵の研究により美濃で制作されていたと証明することができたのです。さらに志野の再現に心血をそそぎ、「荒川志野」という独自の技法を確立しました。
この記事では、数奇な運命をたどり人間国宝に讃えられるまでとなった陶芸家・荒川豊蔵の人生と作品の魅力についてご紹介します。
荒川豊蔵のプロフィール
焼き物の産地に生まれ。苦労の末に陶芸の道へ
荒川豊蔵は1894年3月17日、岐阜県土岐郡多治見町に生まれました。桃山時代に始まった美濃焼の陶祖・加藤与左衛門景一の直系で、母方の祖父は製陶業を営んでいました。多治見は焼き物の産地であり、豊蔵も中学を出ると陶磁器を扱う貿易会社で働き始めます。同時に画家を志していたものの挫折、その後は自ら事業を興し上絵磁器を手掛けるようになりましたが、なかなか軌道に乗せることができませんでした。1922年28歳の時に、上絵付けの仕事で陶芸家・宮永東山(みやなが・とうざん)と出会い、その縁で京都・東山窯の工場長となりました。自らろくろをまわすようになった豊蔵は、陶工としての才能を発揮していきました。
北大路魯山人との出会いと陶磁器の歴史を覆す大発見
豊蔵は多くの人や物との出会いにより人生を育んできた人でもあります。その1つが書家・篆刻家・のちの陶芸家・北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん)との出会いです。1925年のことでした。魯山人は豊蔵のろくろの技術を高く評価しました。1927年33歳の頃、豊蔵は魯山人が立ち上げた料亭で使う食器を作るために建てられた鎌倉・星岡窯で焼き物長として働くこととなります。魯山人が所有する数多くの古陶磁をもとに、作陶の技術を磨き見識を深めていきました。
1930年36歳の豊蔵にとって転機の年でした。4月、星岡窯主新作展のため魯山人とともに名古屋を訪れた豊造は、宿泊場所に近い旧家で桃山時代に作られた古い志野の焼き物を見せてもらいます。「志野筍絵筒茶碗」と「鼠志野香炉」に初めて触れ、すばらしさに引き込まれましたが、一方で疑問がよぎりました。当時、志野・瀬戸黒・織部などの桃山時代の陶器はすべて瀬戸市で焼かれたものだと思われていました。しかし、茶碗の底にある高台(こうだい)についた赤土の色により、瀬戸で焼かれたという説に疑問を持ち、展示会終了後に単独で調査を行います。美濃の古窯を調査した結果、ついに大萱の牟田洞で志野筍絵筒茶碗と同じ筍の図柄が描かれた陶片を発見したのです。この発見により、志野が瀬戸ではなく美濃で作られていたことが証明され、陶磁器の歴史を塗り替えたのでした。
志野の再現を目指し独自の地位を確立
豊蔵はその後も牟田洞での発掘調査を続けていく中で、志野を再現したいという気持ちが強まっていきます。志野が作られていたのは16世紀末~17世紀初頭の短い期間で、史料や技術の伝承がなされていませんでした。志を共にしていると感じていた魯山人とは陶片の発見についての意見が食い違い別離。1932年に失意の中で郷里へと戻ります。1934年40歳の頃、牟田洞に自分の古式の窯を築き、厳しい環境の中で志野や瀬戸黒を再現することに没頭。ついに志野の再現に成功しました。独自の技法を取り入れた作品は「荒川志野」と呼ばれました。
1955年61歳、その功績が讃えられ、志野と瀬戸黒の重要無形文化財技術保持者として人間国宝に指定されました。1971年、77歳で文化勲章を受章します。
1985年8月11日91歳で亡くなるまで、ひたむきに作陶に向き合い続けた人生でした。
荒川豊蔵の作品の特徴
志野の再現に人生を捧げ「荒川志野」を確立
荒川豊蔵の代表的な作品は「荒川志野」と呼ばれる志野茶碗や瀬戸黒茶碗です。志野とは、長石を釉薬(うわぐすり)とした「志野釉」を用いて作られた陶器のこと。白い肌と表面に現れる無数の小さな穴が特徴です。16世紀末~17世紀初頭に作られていましたが、技術の伝承がなされておらず長らく詳細は不明でしたが、豊蔵の研究により昭和に蘇らせることに成功しました。
さらに豊蔵は志野を再現するだけではなく、独自の技法を随所にちりばめた作品を制作しています。貫禄のある独特な造形美と色彩美が表現された「荒川志野」と呼ばれる作品は、多くの人々から称賛されました。1946年に築いた連房式登り窯・水月窯では機械を一切使わず日常で使う食器類を制作。窯は現在でも使用されており、多治見市の無形文化財に指定されています。
座右の銘は「随縁」。掛軸や書画の制作も
豊蔵は自身で絵付けを施した作品も制作しました。また掛軸や書画も多く残しており、茶室にかける掛軸など、茶碗とセットで使用できるようなものもあります。
また、「随縁(ずいえん)」という言葉に思い入れがあり、志野の茶碗にも「随縁」という銘を付けています。「随縁」とは、「縁に随(したがう)」という意味の仏教用語。すべてのことは縁で結ばれているため、それに従って生きるのが良いということを表しています。志野の陶片の発見はもちろん、多くの人々との出会いによって人生が変わったことの現れともいえるでしょう。
1977年には『縁に随う』という長年の研究をまとめた書を発表しています。
荒川豊蔵の評価は?美濃焼の第一人者として人間国宝に
荒川豊蔵は昭和を代表する美濃焼の陶芸家です。重要無形文化財技術保持者である人間国宝認定や文化勲章受章など、最高峰の評価を受けています。
しかし青年期は下積み続き。1つの陶片を手にしたことで当時400年以上前の美濃焼・志野の歴史を明らかにし、陶磁器史の大発見として世間を揺るがせました。その後も志野の再現に人生を捧げ、「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立、人間国宝まで上り詰めていきます。
このように名実ともに世間からの評価が高い豊蔵の茶碗は300万円以上の値がつくものも。特に60歳を超えた時期の作品が高く評価されています。作品の状態によっても査定額は変化しますが、その他の作品でも10~80万円前後で査定されることが一般的です。
陶芸以外にも掛け軸や書画も多く手掛けました。茶室を彩る茶碗と掛け軸のセットが、茶道家やコレクターから人気です。
工芸品高額買取
陶器高額買取
荒川豊蔵の代表作
瀬戸黒茶碗
瀬戸黒釉を施し、漆黒でちぢれた独特の肌が存在感を放つ茶碗です。志野と並び豊蔵作品の代名詞となりました。80万円で買取された実績があります。
紅白梅 茶碗
丸くあたたかみのある形状の茶碗に紅白の梅の絵付けを施しています。10万円で取引されました。
志野盃
約10万円で取引された実績があります。大振りなぐい呑みに志野釉がたっぷりと施されています。10万円で取引された実績も。
耶登能烏梅(やどのうめ)
素地に含まれる鉄分が化学反応を起こすことで、表面に志野特有の淡い緋色が美しく現れた特徴的な茶碗です。
志野茶垸「随縁」
荒川豊蔵はいくつかの志野に思い入れのある言葉「随縁」の銘をつけました。中でも妻に贈った作品は拾った陶片と同じ筍柄が描かれています。120~130万円で取引された実績も。
陶壷に椿之図 藝於遊併畫
SHINWA AUCTION で17万円で取引された実績があります。
まとめ
荒川豊蔵の人生は、晩年世間から高く評価されるに至りましたが、その実ただひたすら一途に陶芸と向き合ったものでした。陶片の発見や多くの人々との縁に恵まれ、その縁に随いながら磨き続けた技術は、現在でも豊蔵の子息により陶芸界に受け継がれています。
国内外で高い評価を得る荒川豊蔵の作品は買取査定の評価が高い作家の一人です。キズや汚れがついた作品であっても、作品によっては高値で取引されています。荒川豊蔵の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
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