藤田嗣治の査定について
藤田嗣治 ~失意と絶望の果てに~
オカッパ頭に丸眼鏡、ワンポイントにチョビヒゲ!
藤田嗣治という画家は一度見たら忘れられないほどのインパクトを残します。
彼はフランスで最も有名な日本人画家でありましたが、生前、彼が日本で評価されることはありませんでした。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる)1886~1968年
レオナール・フジタ(Léonard Foujita)通称フー・フー
彼が画家になれたのは理解ある父親のおかげでした。
藤田家は代々医者の家系で、後の軍医総監になる父親にも医学への道を望まれていましたが、14歳の時嗣治が「画家になりたい」と告げると黙って資金を渡したといいます。
東京美術大学に入学した嗣治は、当時の日本洋画界は黒田清輝を中心とした印象派が主流だっため、彼の古典的な表現が評価されることはありませんでした。
そこで芸術の都、パリへの旅立ちを決意します。
型に囚われない自由な発想が認められるパリの初個展でピカソに見初められた嗣治は日本人画家としての地位を確立していきます。
そんな彼がパリで評価された要因は決め細やかな女性の肌をカンバスに表現した「乳白色」でした。極貧の生活の中、8年かけて開発したこの色により嗣治はたちまちパリの寵児と呼ばれエコール・ド・パリの代表的な作家の仲間入りをします。
嗣治が得意としたのは、女性と猫でした。
彼は度々、女性と猫を同一にたとえる言葉を残しています。
どちらも気まぐれということですね。
画像を載せられず大変残念ですが、代表作「寝室の裸婦キキ」(1922年)はまるで本物の女性のような、まさしく象牙の肌と呼ぶに相応しいものです。
その美しい肌の秘密は長らく不明とされてきましたが、昨今の科学技術の進歩によりその乳白色の色味はべビーパウダー(シッカロール)を使用したということが判明しました。
実際に人間の肌につけていたベビーパウダーを画材として使用することを考え付くとは、女性を愛した嗣治らしい発想ではないかなと思います。
第一次世界大戦が始まる1年前に渡仏し、パリで評価を得た嗣治は第二次世界大戦中に日本に戻りました。
世界的に認められた嗣治も日本国内ではほとんど名前を知られておらず、自身が愛する日本でいかに「藤田嗣治」を認めて貰えるのか考えました。
そこで彼が目をつけたのが戦争画です。
陸軍美術協会理事長に就任し戦地へ取材旅行に向かい、その中の代表作「アッツ島玉砕」は戦争の悲惨さをリアルに表現しています。
時が経ち、日本は終戦を迎え、状況が一変します。
戦争画を描いていた嗣治は準戦犯として日本中から批判され、新しい時代の生贄にされた彼は失望し日本を出て行きました。
1955年にフランス国籍を取得、59年に洗礼を受けレオナール・フジタ(Léonard Foujita)と改名しました。
そんな彼ですが、どれほど日本から排斥されても日本に対する愛情は持ち続けたといわれています。藤田嗣治は日本人とフランス人の心を持つ人物だったのです。
彼は後年、フランス政府からはシュバリエ(ナイト)の称号を贈られ、彼の死後、日本政府から勲一等瑞宝章を贈らました
藤田嗣治の生涯最後の作品は、礼拝堂を造って欲しいというスポンサー(G・H・Mumm社の当時社長であったルネ・ラルー)から依頼でした。
80歳のとき毎日12時間、たった三ヶ月間で創り上げた壁一面のフレスコ画があるのが『ノートルダム=ド=ラ=ペ礼拝堂』です。またの名をフジタ礼拝堂といいます。
ここには嗣治と彼の3人目の奥様である君代夫人が眠っています。
今でも観光地として親しまれ、日本の旅行会社では観光スポットとして紹介されています。
フランスを訪れた際は、足を伸ばしてみるのもいいかもしれません。
査定について
藤田嗣治=レオナール・フジタは現在も人気が高く、需要があります。
最近ですと、オダギリ・ジョー主演の映画が公開されたり、頻繁に展覧会が開催されたりと、皆様が嗣治に触れる機会が増えており、彼が生み出した作品への気運も高鳴るばかりです。
さいごに
今回買い取らせていただいた商品は、上記の理由も重なり査定を頑張らせていただいた商品でした。このような「八光堂」だからできる高額買取は多数ございます。思い入れのある商品を、高額査定することに自信があります。
ご売却をお考えの方は、ぜひ八光堂をご検討ください。