久保田一竹 帯 を買取させて頂きました
「久保田一竹」について
着物は礼装や略礼装、外出着や普段着などその場のTPOに合う決まった着こなしがあります。それは素材や柄、紋によって変わります。
その中でも「作家物」といわれる織物は一点ものである魅力も含め、一種のステータスといえるでしょう。今回、その人気作家の一人、「一竹辻が花」の久保田一竹さんについてお話していきたいと思います。
〈辻が花との出会い〉
1917年東京都神田で骨董商を営む父のもとに生まれました。
彼は勉強嫌いでしたがその気になれば学年で一番を取るほど優秀でした。
しかし勉強するだけの人生に疑問を感じ、14歳のころ友禅師の小林清に師事、大橋月皎に人物画、北川春耕に日本画を学びました。手に職をつけようと考えたのです。
そして19歳で伸るか反るかの大勝負、手描き友禅の世界で独り立ちし成功を収めます。
そんな一竹の運命の出会いは20歳のこと。
上野の東京国立美術館で幻の「辻が花」の子裂と出会いました。
辻が花とは、簡単に説明すると縫締絞(ぬいしめしぼり)といわれる文様染めです。
豊臣秀吉など武家に好まれたことで一世を風靡し、室町時代中期から江戸初期にかけて流行しましたが、江戸中期になると継ぐ者もおらず技法自体が失われてしました。
その技法を蘇らせたいと考えたのです。
しかし時代は二次世界大戦。
一竹にも召集令状が届き、妊娠中の妻を残し戦地へと旅立っていきます。
〈シベリアの夕焼け〉
一竹の転機は、シベリアでの拘留生活の中にありました。
朝鮮半島北部の満城で終戦を迎えますが、ソ連の捕虜となりシベリアに送還されます。
シベリアでの強制収容所での極限状態の生活、昨日まで隣にいた同胞が死んでいく恐怖、明日は我が身かもしれないという不安と絶望の中で人間の生命と向き合っていました。
その生活の中で指した一筋の光、不毛な大地で過ごす己を支えてくれた「シベリアの夕焼けの美しさ」でした。その美しくも儚い一瞬を以前みた「辻が花」で世に送り出すことが、一竹の生きる目標となりました。
「辻が花」への想い
一竹の辻が花は命名「一竹辻が花」といいます。
一竹は何年も試行錯誤を繰り返しますが、なかなかイメージ通りの色を表現することはできませんでした。収入は途絶え、家も土地も売り払い以前の裕福な暮らしが嘘であったかのような極貧の生活が続きます。
そんな苦しい生活の中、過去の辻が花を再現するのではなく、今現在の最高技術を駆使して「現代の辻が花」を創ればいいのだと気づきます。
そして過去の手法と新しい技術を融合させた「一竹辻が花」を60歳のころ完成させました。
一竹辻が花の特徴は以下があげられます。
・何年たっても縮まない生地
・一竹染め
・一竹星とオーロラぼかし
「一竹辻が花」によって、海外でも高い評価を受け、ヨーロッパや北米でも個展を開きました。フランス芸術文化勲章を受章し、日本では文化庁より文化庁長官賞を受賞しています。
査定について
着物は次に着られる方がどういう印象を抱くかが大切になります。
未使用で大切に保管して頂いていたとしても、シミやカビなどがあると、価値はさがってしまいます。
また現代ですと、外国人が日本の旅の思い出に着物で散策なんてこともしますので、丈の長さも重要になります。
ですが、このまま一生箪笥の中に眠らせておくのも大変もったいなく思いますので、もう着ることはないと決めたもの、迷っているものは一度拝見させていただければと思います。査定だけでも無料ですのでお気軽にどうぞ。
さいごに
一竹は四季と宇宙を表現した連作「光響」の完結を目指していましたが、惜しくも製作途中の85歳でこの世を去りました。
その作品は山梨県の久保田一竹美術館に展示されています。
一度は閉館の危機も迎えましたが、ショディエフ財団のパトフ・ショディエフがコレクションを守るため全て購入、寄贈し、コレクションたちはそのままの形で残りました。
それは久保田一竹の作り出した日本のアート、日本の美に共感してくれたからではないでしょうか。私達は日本の大切な文化・伝統を継承していく大切な役割を果たしていきます。是非お任せください。