富岡鉄斎の掛軸を買取しました!
最後の文人 富岡鉄斎
江戸時代幕末から大正末期まで、約90年の長きに渡る時代を生きた文人画家、富岡鉄斎。幼き頃より勉学に励み、動乱の時代を経て以後始めた画業は老成するほどに熟達し「最後の文人」「東洋のセザンヌ」とも呼び名が付き、後世では国内外問わず多くの画家に影響を与えています。今回は当時の時代背景や”文人”などのキーワードと共に、孤高の文人鉄斎について紹介いたします。
◆幼少期 ―生い立ち―◆
天保7年(1836年)、江戸時代の幕末初期、京都の由緒正しい法衣商の次男として富岡鉄斎は誕生しました。鉄斎は幼少時の病気が元で耳が不自由になった事から、両親は商人としてではなく学者として育てる方針で学問を学ばせました。富岡家には代々伝わる学問”石門心学”があり、学問好きの父のもと、鉄斎本人も遊びより読書を好み、国学、儒学、仏教など様々な勉学に打ち込みます。
18歳頃に女流歌人、大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の侍童となり、出家後65歳の蓮月の焼き物制作を手伝いながら共に暮らしました。親子の様な師弟関係で、また、蓮月は飢饉が起きた際は私財を投げうって寄付するなど大変慈悲深く、鉄斎はそんな姿勢に大いに感化され、人格的な影響を受けました。
また、19歳になると南画、大和絵などの各分野の絵も手ほどきを受けて学び始めました。
こうして、鉄斎は幼少期より学問を修めて芸術も嗜む「文人」としての道を歩んでいきました。
◆中期 ―新たな出発―◆
幕末の動乱期、20代の鉄斎は勤王学者として国事に奔走し、その後、生計手段として25歳で画業を始めました。絵の才能開花はまだ先の事とはいえ、鉄斎は文人画、狩野派、琳派など形式問わず様々な画法を貪欲に取り入れ始めます。
明治時代になり、30代以降は3度に渡る結婚、教職勤めを経て、日本各地の旅で見聞を広げた後、やがて神社の宮司に就きます。
敬神思想のあった鉄斎にとって神官職への思いは強く、初めは大和石上神宮の小宮司に就くものの周囲と衝突し辞職、その翌年明治10年、和泉大鳥神社の大宮司に就いて以後は、社殿復興の為の支払いに苦心しながら書画を制作販売して資金を作るなど、仕事に本腰を入れて励みました。
◆晩年 ―鉄斎作品の隆盛―◆
明治14年、兄の死去で神官を辞し京都へ帰郷した鉄斎は、改めて読書や画業に専念し、60歳時に「日本南画協会」を田能村直入らと共に発足します。以後、老境に入ってからは益々精力的に活動し、89歳の最晩年に至るほどに評価は高まり、数多くの傑作を生み出しました。
南画とは、江戸時代半ば以降、文人に好まれた中国由来の絵の様式ですが、鉄斎はというと南画のルールのみに囚われず、独自に取り入れた柔軟な画法で、実に力強く自由で斬新な描き方をしています。そういった画法の独自性は同時代画家のセザンヌと比較され、「東洋のセザンヌ」とも評されています。
また、鉄斎作品の特徴といえば作中に書かれた”画賛”で、文人である本人には寧ろ絵よりもそれこそが本職であり、高い精神性を漢詩や故事など古典に込めて表現していました。
さいごに
「最後の文人」、それは洋風化が進みゆく大きな時代の変化の最中も、ずっと揺らがずに文人としての思想を生涯通して取り組み続け、老境において画業を大成させた巨匠鉄斎ならではの呼び名であり、以後今日に至るまで国内外から数多くの評価を受け、大変著名な文人画家として名を馳せています。鉄斎の作品がございました際は、八光堂へお気軽にご相談下さい。