上村松園 掛軸 買取しました
女流画家・上村松園の生涯
日本を代表する女流画家といえば上村松園を思い浮かべる方が多いではないのでしょうか。
松園は女性の目から「美人画」を描き、女性初の文化勲章を受賞した女流画家の草分け的存在です。歴史上の人物から一般女性など、生涯を通して様々な女性を描き続けました。松園が描いた美女たちは、時代が変わった今でも多くの人に愛されています。
今回は美人画の大家・上村松園についてお話します。
上村松園と日本画の出会い
上村松園が生まれたのは明治八年の京都です。松園誕生の二ヶ月前に父親が亡くなり、母・仲子が松園と四歳年上の姉を育てました。少女時代から絵を描くのが好きだった松園は、母が営む茶葉屋でいつも絵を描いて過ごしたそうです。
松園の絵への情熱と才能を感じ取った母は、十二歳の松園を京都府立画学校へ入学させます。男尊女卑の時代、女が画学校へ通うとなど考えられないと親族からのバッシングを受けても、娘の好きな道を歩かせてあげたいと背中を押しました。
母は松園の最大の理解者であり、娘の画業の為に生涯をささげました。松園はのちに「私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれた」と母への想いを口にしています。
せっかく入学した画学校でしたが、彼女の理解者でもあった講師の鈴木松年の退職で、なかなか人物画を描かせてはもらえなくなったことから、入学の翌年に松園も退学します。それからは松年の画塾に通い、頭角を現していきます。
立ちはだかる日本画画壇への挑戦
画壇は男性中心で女性の社会進出など認められない時代でしたが、女性らしい優しい線と繊細な描写、着物や髪型へのこだわりなど、女性ならではの感性や表現力を活かして、松園は自分が理想とする美人画を描きます。
その才能は早くから認められ、十五歳の時に内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品。一等褒状受賞し来日中の英国王子がお買い上げになり、松園の名は一躍有名になりました。その後も数々の展覧会へ出品、受賞を繰り返します。
女性は家を守れば良いという考えの時代において、男性画家からは嫉妬や嫌がらせが後を絶たなかったようですが負けずに描き続けます。
変わらない松園の美人画
松園は明治の生まれですが、描いた女性たちの多くは江戸後期の装いをしています。
江戸時代のファッションにも現代と同じように流行があり、十年ほどで移り変わっていました。松園は当時の浮世絵などから着物や髪型を研究し、描きたい時代の流行の形に合わせた絵を描いています。また松園が少女時代だった明治初期の風俗画も描きとめています。いつかは忘れられてしまうその時代特有の美しさを、実際に目にした自分が細部まで描き残したいと考えたそうです。急速に進む西洋化により、日本人の生活も考え方も芸術や美意識までも大きく変化していく中で、消え行く日本の美を残そうと努めていました。
松園の描いた美人たちは美しく儚げですが、内側からは芯の強さが滲み出ているような凛とした空気をまとっており、松園の強い想いが表れているようです。
松園は「女性の美に対する理想や憧れを描き出したい」と筆を執ってきました。
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」をモットーに七十四歳で亡くなる最晩年まで描き続けました。
女性の視点から見た理想の女性像、美人画に真っ向から真摯に挑み続けた生涯でした。