棟方志功の買取は是非八光堂へ
棟方志功の歩み
棟方志功、と聞くと独特なタッチで一目見たら彼の作品だと判る印象的な作品です。
ここに至るまでの、世界的な巨匠となるまでの歩みを見ていきたいと思います。
1903年9月5日。青森県青森市にて刀鍛冶の三男として生を受ける。
少年時代の頃に凧絵に興味を持っていたり、転んだ時にたまたま目の前に咲いていた白い水草に、ひどく感激したそうです。この頃から芸術的な感性を持っており、芸術家としての基盤になっているのかもしれませんね。
17歳の時、裁判所内でのバイトをしながら、バイトの休みの日には公園出かけ絵の勉強をする。この頃小野先生という方にゴッホの作品の複製をいただき感銘を受ける。このことにより一層画家という職業に魅了されていったのでしょう。
ちなみに当時、ゴッホ=画家と勘違いして、「ゴッホゴッホ、俺はゴッホ、俺はゴッホ」と、咳でもしているかのように話しをされていたそうで、可愛らしい一面も見えてきます。
1924年上京。展覧会に油絵を出品するも落選続き。4年後には油絵「雑園」で入賞し、さらに2年後美術教師を務める。まだまだ画家としての確立された立場にはなれておらず、芸術家として活動していくことの難しさをうかがう事もできるのではないのでしょうか。
しかし、これから芸術家(板画家)棟方志功として名前を広めていくことになります。
元々版画には興味があり平塚運一氏のもと版画を学ぶ。1930年国画展へ版画4点を出品しすべて入選。これがきっかけで版画家として行くことを決意する。1936年出世作である、「大和し美し」が国画展で入選、民芸運動(1926年から開始された、手仕事で作られた日用品に「美」を見出す活動。河井寛次郎、濱田庄司らも参加)の方々と交流を持つようになり、名を高めていった。
棟方志功は幼少の頃住んでいた青森市が豪雪地帯で囲炉裏を使って暮らしていたため、囲煤により眼を傷め極度の近眼となった。そのため版画を作る際、出来るだけ顔を近付けて眼鏡が板に当たっていたり、躊躇なく彫り進める光景は鬼気迫るモノがある。だからこそ独特な風合いの作品が仕上がるのでしょう。
残念ながら72歳で亡くなられましたが、
版画だけではなく、油絵や書、茶碗に絵を描いたものまで、たくさんの作品を残している方です。
さいごに
保管に困っている、売却したいと、お考えでしたら無料査定ですので、
皆様のご来店、ご連絡お待ちしております。
古美術八光堂をどうぞ宜しくお願いします。