大正ロマンと竹久夢二の女性画
「竹久夢二」について
しなやかな所作がすらりと美しく、ほんのり艶のあるお洒落な女性たち。挿絵、装丁、詩、広告、雑貨など幅広い分野で当時一世を風靡し、現在も尚魅力的なデザインの人気作家である竹久夢二。今回は大正ロマンの時代と共に活躍した彼についてご紹介いたします。
●夢二と明治・大正時代
明治から大正時代にかけて、経済・文化ともに勢いづいた日本は、自由で開放的、モダンで華やかな大衆文化が発展しました。
明治17年、岡山県の酒造業の家に生まれ、18歳で上京した竹久夢二は、学生生活の傍らスケッチしたものを読売新聞などに投書し、その後21歳の時に新聞のコマ絵から画業がスタートしました。おしゃれな女性画で有名な夢二ですが、デビュー当初は画業として風刺画や時事スケッチ等社会的な絵も描きました。
その頃は印刷業界も欧米から活版印刷が取り込まれ、革新された時代でした。活版による文字印刷に、木版で挿絵をした部分をコマ絵と言い、夢二はコマ絵を多数描き、その後それらをより集めた初画集「夢二画集-春の巻」がベストセラーになりました。
●夢二式美人画
細く華奢な手足、大きな瞳に長い睫毛、どこか憂いを帯びた美しさ。夢二の描く美人画は、たちまち評判となり、人気作家になりました。
手書き文化だった当時は、封筒・便箋など可愛い小間物は女学生など若い女性達にとって人気アイテムで、30歳で自身デザインのグッズ店「港屋絵草子店」を開店すると、連日多数のファンで繁盛したそうです。
また、女性像だけでなく、デザインにおいても美しさを追求していた夢二の絵は、時代の先端ファッションとしても人気で、当時から浴衣柄などのデザインにもなりました。
画法においては、恋人彦乃との出会いを経て以降、更に夢二独自の描写方法が確立していきました。「永遠のひと」と呼ばれる彦乃は、女子美術学校に通っていた学生で、日本画技術を学んでいた彼女の影響を夢二も受け、浮世絵技法を取り入れた新画法を生み出しました。
●夢二と女性関係
様々な恋愛遍歴を持つ夢二には、作品を鑑賞する上でかかせない3人の女性がいます。
画風誕生のきっかけ、ともいわれるのは若くして未亡人だった妻たまきで、彼が大学時代に自作を売り込みにいった絵葉書屋で出会いました。たまきは、夢二の描く特徴通りの大きな瞳の美人な女性で、出会って2~3ヶ月で早くに結婚し、子供も3児授かりますが、お互い我が強く、衝突やすれ違いを繰り返し離別します。
一方、「港屋絵草子店」の客としてやってきた彦乃とは、たまきとの離別と共に恋愛関係が始まります。夢二にとって最愛の存在でしたが、彦乃の父に反対され、結核を患い25歳で夭折してしまいます。
その後、モデルのお葉と出会います。”お葉”は夢二が名付けた呼び名で、本名は”永井カネヨ”。若くして東京美術学校、画家の藤島武二や伊藤晴雨らのモデルにもなっていました。お葉と渋谷に所帯を持ち、子供を1児授かりますが夭折。
お葉は彦乃の面影を尚も追う夢二との関係に悩み、苦悩の末に離別します。
女性描写において、繊細で表情の機微の表現がなされている夢二作品には、これら恋愛の影響も少なからずあったようです。
そんな夢二作品で有名な「黒船屋」の女性像については、病床中の彦乃を想って描いたとも、お葉をモデルとしたとも言われているようです。
さいごに
現在で言うところの”グラフィックデザイナー”としての活躍をした竹久夢二。華やかな大正ロマンの代表的な著名画家として現在も尚多くの人に親しまれ、おしゃれなデザインは現在でもリバイバルされ続けています。当時は画壇としてより大衆文化の中で活躍していましたが、第二次大戦後以降は絵画評価として上がって来ています。夢二の作品をご売却の際は、ぜひ八光堂へお気軽にご相談くださいませ。