森寛斎の掛軸を買取致しました!
日本画の名匠 森寛斎
まだ雨も続き不安定な天気ですが、皆様どうお過ごしでしょうか。
湿気はありますが涼しい日々で個人的には割りと好きな天気でもあります。朝や夜は少し寒いので、体調には気を付けたいところですね。
今回は長州出身(現在の山口県)の日本画家を紹介していきたいと思います。
長州藩士である、父・石田傳内道政の三男として生まれます。父・石田傳内道政は分限帳(大名家家臣の名や地位、役職などを記した帳面)に記載されていないことから下級藩士だったようです。
そんな家庭で育った寛斎、12歳の時に寺侍(格式高いお寺で警護などをする侍)で、円山派に影響を受けた太田龍につき絵を学びます。
18歳の時に検使役として大阪の蔵屋敷に使えていた戸田九郎左衛門に従い上阪し、円山派の一人である森徹山の門に入り養子となりますが、戸田の病気もあり一度帰郷します。
その頃森徹山は京都に移動しており、再度門をくぐるため上洛して再入門を果たすのです。
四条派に押されて衰退の一途を辿っていた円山派は再興するために、表向きは徹山の実子として実際は森一鳳の弟として徹山の養子となります。その翌年、徹山がなくなり四国や中国地方など諸国を転々とし、この頃から南画も学び始め、明治の応挙と評されるようになります。
師である森徹山の務めていた金毘羅神社の絵師として後を引き継いだり、円山応挙の壁画の修復などをやりながら画法や技術を学びます。お抱えの絵師を務めた後、この身分を離れて上洛します。
明治以降は京都に永住し、悠々と絵を描き続けます。如雲社に参加後、同社及び京都画壇の中心人物として博覧会にも数多く出品し、数々の賞を受賞、1880年京都府画学校の設立に伴い、画学講座を担当もしています。
帝室技芸員を拝命後4年、肺炎が再発して自宅で他界してしまいます。
数多くの弟子を世に出した日本を誇る優秀な画家であり、師匠でもあります。
森寛斎の墓が京都府の清閑寺霊山町神葬墓地にありますので、ぜひ一度は伺ってみたいものですね。
さいごに
森寛斎の作品をお持ちの方はもちろん、他の作品、他のジャンルなど多岐にわたり査定しております。ご売却をお考えの際はぜひ、古美術八光堂をご利用いただけたらと思います。
スタッフ一同、お待ちしております!