織田廣喜の絵画を買取いたしました
織田広喜について
若かりし頃、様々な職に就きながら、苦学の末、画家となった織田廣喜について今回はお話いたします。
織田廣喜が生涯描き続けたモチーフ「少女」。私が始めて目にした作品も少女でした。
滲んだ色彩のタッチと背景、はっとさせられる美しい赤色の帽子、その深いつばの奥には、輪郭の不確かな目がじっと、こちらを見据えています。
陽炎の立ちこめたようなキャンバス。
存在が曖昧な為でしょうか、傍観者は見ようとする意識が働き、曖昧な為でしょうか。
傍観者は想像が働き、感情が動いてしまいます。
織田廣喜は、1914年自然あふれる当時の福岡県千手村に生まれ、少年時代を過ごします。
高等小学校を卒業後、父が病気の為、陶器の絵付けや、ちょうちんの図案描き、菓子屋、郵便局など様々な仕事をしながら、家計を支えます。
幼い頃から絵が大好きでしたが、貧しい家計であった為、周りからは就職を勧められ、画家になる事を反対されていたそうです。
そんな中、当時油絵の指導を受けていた犬丸琴堂が母を説得してくれたことにより、上京する機会をつかみます。
以前、金銭的余裕のなかった織田廣喜は、住み込みで働き、様々な仕事を掛け持ち、こつこつと学費を貯め、日本美術学校に入学します。
入学後も様々な仕事をこなしつつ、藤田嗣治、岡田謙三、鈴木信太郎など様々な教員に指導を受け製作に励みました。
卒業した織田廣喜は何度か出品し落選していた二科展にて、26歳に入選、32歳についに賞を受賞します。
そして、その受賞パーティーで生涯の女性と出会うことになります。同展に作品を出品していた萬宮リラという女性です。会場に案内した事がきっかけで交流が始まり、37歳に結婚することになります。その二年後長男廣比古誕生が誕生し、作品制作に励み、徐々に認知が広がっていくのです。
46歳にはフランスへ渡り、帰国、その一年後、妻リラと長男廣比古戸ともにフランスに渡り、スペイン、イタリアへ取材旅行を重ねます。
晩年、妻リラが寝たきりとなるも愛し続け、共に過ごし、絵を生涯書き続けたのです。
織田廣喜の作品にはどこか幸せな寂しさが漂います。それは、作者自身の人生を投影しているかのようです。
さいごに
福岡出身の作家さんということで、お持ちの方も多くいらっしゃると思います。
お持ちのお客様、ご売却をお考えの際は是非古美術八光堂博多店へ!!皆様のご来店をお待ちしております。