ミュシャのリトグラフを買取いたしました
アルフォンス・マリア・ミュシャについて
毎年のように日本で展示会が開催されるチェコ人作家といえば、そうアルフォンス・マリア・ミュシャです。
毎回展示会は大盛況、彼の絵がお好きな方も多いのではないでしょうか。
チェコ人作家でありながら、チェコ語読みの「ムハ」ではなく、フランス語読みの「ミュシャ」という名で広く知られている彼は、アールヌーヴォーのポスター作家ではなく、スラヴ民族の芸術家であるという自負がありました。
本日はそんなミュシャの人生を紐解いていきたいと思います。
・ミュシャの経歴
アルフォンス・マリア・ミュシャは1860年にチェコのモラヴィア地方の小さな村で生まれました。5人兄弟のうち3人が肺炎で亡くなるという厳しい状況の中、ミュシャは11歳で寄宿舎の聖歌隊奨学生になります。
“音楽と教会の雰囲気は芸術的で何か運命を感じる”と思っていたミュシャですが、15歳で声変わりした事をきっかけに、学校も聖歌隊も辞めて父親が勤めていた裁判所の記録係のアルバイトを始めます。しかし、この仕事には全く運命を感じなかったミュシャは、18歳でプラハの美術アカデミーに応募します。
結果はまさかの不合格。もっと適職を見つけなさいと言われてしまったミュシャですが、自分の天職は芸術であると信じ、ウィーンで舞台の背景画を書く仕事に就くことになりました。
運命とは皮肉なもので、その後経営不振に陥ったこの会社はここで一番の描き手であったミュシャをクビにします。なぜなら他は妻子もちの職人ばかりだったのです。
舞台背景の仕事がなくなったミュシャは、ミクロフという街で肖像画家になるのですが、偶然にもミュシャに肖像画を依頼してきたクーエン伯爵が彼の仕事を大変気に入り、自身の弟に話をしたのです。するとクーエン伯爵の弟がミュシャに援助をしてくれる事になりました。
2年間ミュンヘンのアカデミーへ通える事になったミュシャは28歳でパリに出ます。
30代となったミュシャは援助が打ち切られ、本屋雑誌の挿絵、カレンダーやポスターなどの仕事を始めるのですが、ここからミュシャの運命が動き出します。
・ミュシャの転機
34歳のクリスマス、ミュシャはメルシエ社という印刷会社にいました。
すると会社へ当時フランスの大女優であったサラ・ベルナールから元旦までにポスターを作って欲しいという依頼が入ります。
ミュシャは、「是非やらせてください!自信があるのです!!」と掛け合うとすぐさまスケッチを作成、サラは従来のポスターには無かった品格と、華やぎのある芸術が施されたその絵を大いに気に入り、すぐさまポスターの制作が開始されました。
そのときの作品が、2メートルある「ジスモンダ」のポスターです。
このポスターの評判はとても良く、サラはミュシャと6年契約を結ぶこととなり、同時にこの作品のおかげで、ミュシャは一夜にして時代の寵児となったのです。長い髪を絡ませる女性はミュシャスタイルと呼ばれ、アールヌーヴォーが流行する中、ミュシャは帝王でした。
まさにベルエポックな日々を送っていたミュシャに更なる大きな仕事が入ります。来年のパリ万博でボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾をお願いしたいという、オーストリア政府からの依頼です。
その作品でミュシャは銀賞を受賞し、オーストリア皇帝のフランツ・ヨゼフより、ナイトの爵位を授けられたのです。
50代になったミュシャはチェコに帰国し、民族の歴史を描いた連作「スラヴの叙事詩」の制作にかかります。18年後、20連作が完成。
その後ミュシャは79歳の誕生日を目前に亡くなりました。享年78歳でした。
「スラヴの叙事詩」は1980年、モラヴィアの小さな村で展示され、以降ずっと公開されています。