世界一有名な江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎
葛飾北斎について
『人魂で ゆく気散じゃ 夏の原』と、辞世を残した葛飾北斎。
版画では景色や花鳥画、肉筆画では美人画や武者絵を描き、絵手本や挿絵も数多く発表しています。
洋画の作品も試みるなど、生涯作風の幅を広げた北斎の作品はヨーロッパに多く流れ、フランスの印象派の作家達に大きな影響を与えました。かのゴッホやモネ、ゴーギャンなどの著名作家も北斎の影響を受けたと言われています。
今回はそんな葛飾北斎のお話です。
葛飾北斎は1760年9月23日に江戸本所轄下水(現在の墨田区)に生まれました。6歳の頃から絵に夢中だった北斎は、14,5歳の頃彫刻師に学びます。しかし、ひそかに狩野派の画法を勉強していた事が師の知る事となり、破門となります。
1779年、北斎19歳の時、浮世絵の二大勢力はリアルな表現の役者似顔絵で人気急上昇の勝川派と、理想美で様式化された役者絵や美人画をメインとする伝統美の鳥居派でした。北斎は勝川派である浮世絵師・勝川春章に入門します。
20歳で「春朗」号で浮世絵会にデビュー。しかし、北斎33歳の時、師・春章が亡くなり、他の弟子との仲も悪くなり、35歳になると勝川派から独立。36歳で「俵屋宗理」を襲名します。俵屋は、装飾的な琳派を目指す一門で、北斎はここで流行の狂歌絵本や個人向摺物で腕をみがきました。
40代になると読本の挿絵を描き始めます。複雑なストーリーをパッと分からせるのが腕の見せ所ととても楽しみながら仕事に励んだ北斎は、曲亭馬琴や柳亭種彦と組んで読本人気のピークを作りました。
洋風に凝ったのもこの時期で、ひらがなをアルファベット風に書いてみた作品もつくりました。
50歳で絵手本を描き始めた北斎は、56歳の時に読本で磨いた表現力をまとめて絵本を出版します。これが有名な「北斎漫画」です。この漫画は日本から輸出された陶器の包み紙としてパリに渡ると版画家のフェリックス・ブラックモンは“こりゃ凄いデッサンだ!”と大絶賛。包まれてきた陶器よりも、その紙に価値のあることに気がつきました。
60代になった北斎は、長崎のオランダ商館長(カピタン)から絵巻物を2対お願いされます。それにも関わらずカピタンは高すぎると駄々をこね、結局一対は150両でカピタンが、もう一対は出島の医者のシーボルトが買うことになったという逸話もあります。その時北斎は、屈辱より貧乏である事の方がましだと立腹したそうです。
70歳になると肉筆画に力を注ぎます。「冨嶽三十六景」「諸国滝廻り」などの風景連作、「百物語」などの妖怪もの連作はこの頃の作品です。絵本「冨嶽百景」からは改号し、「画狂老人」「卍」を使うようになります。
80代になった北斎は「日新除魔」として毎日獅子の絵を描いたそうです。
北斎は改号する事30回、転居する事93回と転々としながら生涯に30,000点を超える作品を残します。そして北斎の門人の数は、孫弟子も含め200人を超えます。
「あと10年、あと5年でいい、命をくれればな、本当の絵描きになれるのに・・・」病床の北斎はそういい残し、門人や友人に囲まれ息を引き取りました。享年88歳でした。