林武~絵を捨てた先に見えたもの~後編
林武について・後編
都内でも雪が降り積もりましたね。
つい先日、横浜本店にて店番をしていたときも外ではちらりと雪が舞っていて、本格的な冬の到来を感じました。
さて、前回に続いて林武についてお話し致します。
・美術学校入学、そして苦悩
林武は日本美術学校に入学するまで、特に誰かに絵を習ったりしたわけではないようで、完全な独学で絵を描いていたそうです。
絵描きになるために入学し、ここで様々なことを学んだようですが、入学後も絵に関しては妥協できない、成功しなければという思いから自分を追い込み過ぎてしまいます。追い込まれすぎた結果、努力して入学した日本美術学校も退学してしまうことになります。
絵を本当に愛するがゆえに、彼は絵を捨てようとまで思い詰め、絵具や筆などいっさいを捨ててしまいます。
このころ結婚していた妻に苦労を掛けたくなかったのかもしれません。彼はこの妻・幹子を本当に心の底から愛していたそうで、亡くなるまで女神とまで崇めていたようです。
実際には幹子は武が画家になるために自分が苦労することは何とも思っていなかったようで、林武は日本一の画家になると信じていたそうです。お互いを思い合う素敵な関係ですね。もちろん幹子をモデルにした作品も残しているのは言うまでもありません。
・絵を捨てた先に
道具一切を捨てたときには、精神的なところから幻覚を見たり幻聴を聞いたりしていたようで、自分がどうかしてしまったと思ったそうです。ゴッホのような悲惨な画家にはなりたくなかったと語っているように、そちらの面でも相当辛かったと思います。
しかし、このあと彼は全く新しい世界を見ることになります。道具を捨てると同時に絵に対する自身の執着心や責任、野心などを振り払うことができたのです。
それまでは、追い詰められたように絵描きにならなければと絵を描いていました。それがなくなり、素直に世界を見ることができるようになります。このことがあってから、一切の迷いを捨ててそれまで以上に絵に専念しました。自分でも、趣味も無く、人生で絵を描くこと以外になにかをする余裕は無かったと語っています。
そしてついに、二科展で初入選し彼の絵が認められる日がやってきます。
・画家としても指導者としても活躍
その後は、洋画家として成功を収め様々な作品を残していきます。彼の作品からは岸田劉生、セザンヌ、ピカソやビュッフェなどの影響が垣間見えます。
初期の作品は絵具を薄く塗っていましたが、戦後は多くの方が林武の作品と言われてイメージするような、絵具を盛り上げて原色を多用する作風になります。晩年に描いていた薔薇や富士山をモチーフにした作品は現在でも人気が高く、高値で取引されることも多いです。
指導者としても東京芸術大学教授を務め、鶴岡義雄、高塚省吾、奥谷博など数多くの画家を育てているように、作風も含め現在の洋画界においても林武の影響力の強さを感じます。
皆様も林武の作品のご売却をお考えでしたら、様々な思いのこもった彼の絵を是非私に拝見させていただければと思います。