モンマルトルの町並みを愛した画家“モーリス・ユトリロ”
モーリス・ユトリロについて
白を基調とした風景画を描き評価を得たエコール・ド・パリの画家、モーリス・ユトリロ。
そんな彼が若くしてアルコール依存症であった事をご存知でしょうか。
40歳までの間に10回入退院を繰り返し、お酒を絶つことが出来ず、入院中に絵はがきを見て制作する事を覚えたユトリロ。
自身の宝を漆喰のかけらと話す彼の何とも言い難い複雑な人生をご紹介したいと思います。
ユトリロは1883年12月26日にフランスのパリに生まれました。
私生児だったユトリロは、産まれてすぐに祖母に預けられます。
8歳の時にスペインの画家であるミゲル・ユトリロに認知され、以降ユトリロ姓を名乗ります。時を同じくして、ユトリロの母は別の男性と結婚し、ユトリロは実母、義父の三人暮らしを始めます。家族と住んでいてもいつも孤独感に苛まれていたユトリロは、10歳の頃から寂しさを紛らわす為にこっそりとお酒を飲み始めました。
幼いにお酒を買えるお金があったのか不思議なところですが、彼は切符代などを浮かせながら工面したお金でお酒を買っていたのだというのだから驚きです。
そんな生活を送るユトリロは立派な大人になる前に、立派なアル中になってしまいました。18歳の時にはアルコール中毒の為入院をすることになります。病院の先生はリハビリの一環として絵を描いてみる事を提案し、ユトリロは母に褒められたい一心で絵を描き始めました。
20歳になると母と一緒にコルトー街に引っ越します。
ユトリロが一番好きなのは、サクレ・クール寺院で、良く題材にしたのもサクレ・クール寺院でした。その頃から、白い絵具に砂や漆喰を混ぜて絵を描くようになったのです。
27歳から28歳までアルコール依存症治療の為、サンノワ療養所に入ったユトリロ。
その留守中になんとユトリロの母は、彼の幼馴染であるアンドレ・ユッテルと再婚をしました。母と唯一無二の友人を同時に失い悲観に暮れるユトリロは、摂取酒量が一気に増え、今までの治療の努力は全てが水の泡になってしまいます。
その頃にはユトリロは、外で絵を描くより入院中の院内や酒場の奥で絵葉書を見て絵を描く様になりました。
そんなユトリロですが、35歳の時に運命的な出会いが訪れます。
それはユトリロが病院を脱走したときの事、偶然通りで出会ったのがアメデオ・クレメンテ・モディリアーニでした。酔いつぶれ嫌われるタイプのユトリロと違い、酔っても気品があって人気者のモディリアーニという正反対の二人でしたが、意気投合し、仲の良い飲み友達になったのです。
しかしそんな楽しい時間は長くは続きませんでした。ユトリロにとって唯一心を許せるモディリアーニは、一年後亡くなってしまったのです。彼の死後、ユトリロは孤独の世界へ浸っていきました。
この年、ルプートル画廊で開かれた個展が好評で、この頃からユトリロの絵は売れるようになりました。
周囲にも認められることで酒量も減り、母とユッテルの保護の下でただひたすらに絵を描きました。ただの飲んだくれだったユトリロは、ついに売れっ子画家になったのです。
しかし、なんと皮肉なことか、お酒の量が減ったの比例して作品への情熱は細まっていくのでした。
52歳になると、母の勧めで財産家の未亡人リュシー・ボーヴェル66歳と結婚。
裕福にはなりましたが、有名な画家だから結婚したというボーヴェルにどんどん絵を描けとせがまれ、まるで囚人の様な生活になってしまったのです。以降ユトリロは、想像力の失われた制作を余儀なくされたのです。
55歳で母死亡の知らせを聞いたユトリロはあまりのショックに卒倒し、悲しみに暮れお葬式にも出席できず、その結果狂信的なカトリック信者となってしまいました。
そんなユトリロも1955年に南仏で客死、享年72歳でした。
さいごに
モーリス・ユトリロが評価を得た、白を基調とした美しい風景画。
彼の描く白には、実際の家屋の素材でもある石灰や漆喰、卵の殻や砂、リアリティを出す為に鳩の糞まで混ぜ込まれており、あの独特の色合いや質感を得たといわれています。
ユトリロの生まれたモンマントルは、漆喰や煉瓦の家屋や階段が多かったそうです。彼は何かのインタビューで「パリから一つだけ持ち帰るとしたら、それはひとかけらの漆喰かな」と話し、良く入り浸った居酒屋の向かいの壁には「この向かいには僕の人生で最も美しい思い出がある」と書いたそうです。
大人になっても、その欠片で遊んだ懐かしい幼少期を思い出していたのかもしれません。
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中々お目にかかることの少ない作家ですが、特に原画は高価買取が期待できるお品でございます。もちろんリトグラフ作品も頑張らせて頂きます!
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