ラウル・デュフィ~色彩の魔術師と呼ばれて~
ラウル・デュフィについて
皆さんこんにちは、八光堂大阪本店・鑑定士の北村です。
昨日の日中は暖かい陽気に包まれていましたが、夜はやっぱり冷え込みましたね・・・。
この寒暖差で風邪などは引かれていませんか?
ご来店の際には寒さ対策をしっかりとしてお越しくださいね。
さて、今回は「ラウル・デュフィ」についてご紹介したいと思います。
・貧しい中で志した作家という夢
デュフィは1877年、フランスのノルマンディーにあるル・アーヴルの港街に9人兄弟の長男として生まれました。
音楽好きな明るい家庭の中で育ったデュフィでしたが、生活は困窮しており、その家庭を助けるため、中学校を14歳で辞めて貿易会社で使い走りとして働き出しました。
後に太平洋定期船の秘書を務めますが、この頃から絵画に興味を持ち始めます。
そして18歳の頃、仕事の傍らで美術学校の夜間クラスに通うようになるのでした。
・影響を受けた印象派
23歳の頃、兵役を終えたデュフィは奨学金を得ることにより、単身パリの国立美術学校エコール・デ・ボザールへ入学します。
このとき、ジョルジュ・ブラックと学友になり、印象主義のモネやゴーギャン・ゴッホなどに影響を受け、よく故郷の海岸や街のにぎわいを描いていました。
・影響され作られていく独自性の完成への道
1903年からアンデパンダン展に出品するようになりますが、1905年アンリ・マティス、アルベール・マルケとの出会いから印象派に興味を失い、フォーヴィスム(野獣派)に転身していきます。ピカソなどの若い画家の作品を見た事も一つの要因になったようです。
マティスと出会い、作品を見た際デュフィは「印象派の写実主義は僕にとって魅力的ではなくなった。外見の表現することなど問題外だ。」と書き残しています。
フォーヴィスムと出合ったデュフィは、結婚した1907年の次の年にはセザンヌ風様式を採用しフォーヴィスムから離れていき、1911年にはデザイナーのポール・ポワレとの仕事でテキスタイルデザインを取り入れます。
この仕事以降、デザイナー契約を結ぶ事となり、様々な織物のデザインを手がけました。
彼のデザインは輪郭線から色彩がはみ出していることで有名で「色彩の輪郭からの解放」と言われているそうです。
・舞台デザインとの出会い 独自性の完成
戦争が始まった1914年をなんとか生き抜いたデュフィは、1918年ジャン・コクトーの舞台デザインで復帰します。
舞台の装飾美術を絵画に取り入れたデュフィの作品は高評価を得るようになっていきます。
しかし、デュフィがしっかりと安定しだしたのは61歳頃だと言われています。
1953年に亡くなる前年にもヴェネツィア・ビエンナーレの国際大賞を受賞しており、その賞金は全て芸術のため寄付されたそうです。
さいごに
舞台装飾を学んだことでリズミカルで軽快に線を描き、輪郭を作る彼はまさに水彩の名手であり、明るさと楽しさ、そして美しさと温かさを感じさせてくれる色使いは、平明な具象画に見えてもけっして愛好家を飽きさせない造りであり、自身が取り入れた全てを大成させる程に磨いた腕が織り成す色彩の匠さは、「色彩の魔術師」の異名を感じさせます。
全ては楽しい子供時代の音楽一家から生まれた感性が土台だったのではと僕は思います。
ラウル・デュフィの作品をお持ちのお客様は是非とも八光堂へご連絡ください。
しっかりとした査定・評価をしてお買取りさせて頂きます!
皆様からのご連絡をお待ちしております。