名古屋で楽焼?中村道年の「八事窯」
中村道年について
「楽焼」といえば楽吉左衛門。
お茶を嗜まれている方や、陶器が趣味の方なら誰もが知っているビッグネームで、また楽焼は楽家しか作っていないと思われている方も多いのではないかと思います。
楽焼の本来の意味はその名の通り、楽家が作った作品ということですが、一方で広義としての楽焼は、実は全国各地色んな窯で作られているんです。
中村道年が築いた名古屋「八事窯」もその一つ。
瀬戸や常滑といった産地が近く、焼き物文化の盛んなこの地で見事な楽焼を作り続けています。
名古屋に窯を開いたということで、初代中村道年は名古屋人・・・かと思いきや、実は出身は京都なのです。
全国各地、果ては中国まで修行に行き、最終的には名古屋に腰を落ち着けます。
その後、名古屋の茶人・森川如春庵と知り合い、その伝手で得た豪商の支援の元、大正12年名古屋の八事にて築窯。
この窯、如春庵をはじめ魯山人など多くの文化人が出入りし、ちょっとしたサロンとしても賑わっていたそうですが、この時はまだ楽焼専門ということはなく、様々な技法の茶碗を作っていました。
本格的に楽焼を追求し始めたのは、二代目の中村道年になってからだそうで、現在の八事窯の道筋を作った重要人物です。
初代の下、様々な技法を学んでいった二代目道年ですが、戦後に楽焼以外を廃窯し楽焼一筋で作陶することを決心しました。
しかしこの当時、実はまだ「八事窯」の名前はありませんでした。
表千家に入門して茶の湯の勉強もしていた二代目道年が、表千家家元即中斎より「八事窯」を命名され、ようやく「楽焼の八事窯」が誕生したのです。
そしてこの二代目道年は、東海伝統工芸展にて入賞し「八事窯」の名前を全国に広めた後、各地のお寺で作陶するなどし、その名前を確固たるものにしていきます。
以来、現在の五代目に至るまで、独自の楽焼を追求し続けてきた中村道年の「八事窯」は名古屋の楽焼の代名詞となっていったのです。
「土に生まれて 土を喰い 土地と遊びて 土に生き 土と成るらん」
初代中村道年の遺した言葉ですが、如何に道年が焼き物の元となる土に対して真摯に向き合ってきたかが伺える言葉です。
その遺志は、現在の五代目まで受け継がれ、名古屋では今もなお百貨店や美術館でも多くの展覧会が開催されています。
さいごに