エコール・ド・パリを代表する画家・モディリアーニ
アメデオ・クレメンテ・モディリアーニについて
引き伸ばされたような長い首・・・アーモンド形の目を含む単純化された顔・・・
原始美術の影響を受けつつもシエナ派などの古典芸術の厳格性も色濃く表現している画家といえば、皆様どなたを思い出しますか?
そう、20世紀絵画界を代表するエコール・ド・パリの画家、アメデオ・モディリアーニを思い出したのではないでしょうか。
本日は“モンパルナスの貴公子”と呼ばれ、生粋のダンディーな色男でありましたが、その悲劇的な生涯から呪われた画家と囁かれる事もあった彼の一生をご紹介したいと思います。
アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは、1884年7月12日にイタリアのトスカーナ地方にある港町リヴォルノに生まれました。
モディリアーニは病弱で学校に通えず、教養豊かな母や叔母、祖父から文学や哲学などの教育を受けました。四人兄弟の末っ子として生まれたモディリアーニは、病弱なことも相まって皆から神に愛される者という意味の“アメディオ”と呼ばれ、それはそれは甘やかされて育てられました。
教育の賜物か、モディリアーニは詩と哲学が何よりも好きでした。11歳の時のお気に入りはボードレールやマラルメというのですから随分ませた少年ですね。
この頃からモディリアーニの母は、“この子はひょっとしたら将来画家になるかもしれない!”と思っていたそうです。
14歳から地元の画塾へ通いますが、17歳で結核の転地療養の為故郷を離れカプリ島へ渡ります。その翌年には、気候の良いイタリア各地を旅行し、ローマ・ナポリ・フィレンチェ・ヴェネツィア・・・などの芸術都市で古典作品に触れ影響を受けます。
1906年の冬、22歳になったモディリアーニはパリへ行き、モンマルトルのアトリエを転々としました。その時共同アトリエ「洗濯船」でパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックやアンリ・マティスらと出会います。
翌年サロン・ドドンヌでは、セザンヌの大回顧展が開かれたのですが、モディリアーニはそこで深い感銘を受けます。
セザンヌの【赤いチョッキの少年】を常に持ち歩き、取り憑かれたように模写を何度も何度も繰り返しました。
モディリアーニの低迷期
1909年になると、フィリッポ・マリネッティが未来派宣言を行いました。
未来派宣言とは芸術思想の一種で、モディリアーニは未来派の中心人物であるジノ・セヴェリーニに誘われますが、それを拒否。モディリアーニは伝統主義者ではありませんでしたが、未来派の掲げる伝統破壊主義でもなかったのです。
26歳頃から、モディリアーニは彫刻に傾倒していきます。隣人が彫刻家であるコンスタンティン・ブランクーシであった事も影響しているのかもしれません。ですが、30歳になる頃には再び絵画へシフトチェンジしていきます。
30歳になると、パリで英国人ジャーナリストのベアトリス・ヘイスティングスと同棲を始めます。モディリアーニの敬愛するダンテの永遠の恋人と同じ名前であった事に運命を感じたそうですが、その生活は長くは続きませんでした。
ベアトリスに捨てられてしまったモディリアーニですが、流石ハンサム画家の筆頭、翌年には美大のお祭りで知り合った画学生ジャンヌ・エビュテルヌと恋に落ちます。当時ジャンヌは19歳、モディリアーニは33歳でした。モディリアーニはこの可愛くて白い肌をしたジャンヌをココナツちゃんと呼んでいたそうです。
ちょうどその頃、モディリアーニは画商のレオポルド・ズボロフスキーとも知り合います。レオポルドはタバコ代を節約し、宛名書きのバイトで資金を作っていた貧乏画商でしたが、それにも関わらずモディリアーニに献身的な援助を行いました。心底モディリアーニの絵に惚れ込んでいたのしょう。
二人はベルト・ウェイル画廊で個展を開きますが、風紀上の問題で個展は初日で打ち切りになってしまいました。その理由は“裸婦”でした。裸婦は伝統的なモチーフではあったのですが、陰毛とワキ毛を露にしたところがダメだったようです。
34歳の時、娘ジャンヌが生まれますが、妻ジャンヌの両親は宗教上の理由から結婚に猛反対。モディリアーニは生活費を稼ぐ為にカフェへ行き、カフェに来ている客相手に肖像画を書いては小銭を稼ぎましたが、稼いだお金はすぐに酒と麻薬に使ってしまう堕落した毎日でした。
モディリアーニの最期
1920年1月のあるとてもとても寒い日にモディリアーニはアトリエで倒れました。
モディリアーニは医者にかかることもなく、その二日後に息を引き取ります。享年35歳。あまりにも突然で短い生涯でした。
実はその時、ジャンヌのお腹の中には二人目の赤ちゃんがいたのですが、ジャンヌはモディリアーニを失った悲しみを受け止めることが出来ず、その二日後に2歳の幼い娘を残してアパートの5階から飛び降ります。(娘ジャンヌはアメデオの妹であるマルゲリータに引き取られました。必死にマルゲリータを探してくれたのはレオポルトです。)
モディリアーニの後を追ったジャンヌですが、悲しいことに彼女の遺族が大反対したためにお互いの遺体が一緒に埋葬される事はありませんでした。ですが、その後10年の月日を経て、二人の遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬されることとなりました。
さいごに