17世紀で最も国際的な名声を得た画家・ルーベンス
ピーテル・パウル・ルーベンスについて
突然ですが、皆さんご存知の名作『フランダースの犬』で主人公ネロが憧れ、最期に教会で目にした絵画の作者といえば誰だかお分かりですか?
イタリア、オーストリア、フランス、スペイン、イギリス各国の宮殿で大活躍し、17世紀で最も国際的な名声を得たピーテル・パウル・ルーベンスです。
本日は、八光堂での買取商品のご紹介ではございませんが、個人的に大好きなルーベンスについてお話したいと思います。
ルーベンスの経歴
ピーテル・パウル・ルーベンスは、1577年6月28日にドイツ西部のウェストファーレンにあるジーケンという小さな町に生まれました。
10歳の時に父が亡くなり、母の実家のあるアントワープに戻るのですが、生活は困窮し、母はルーベンスが13歳の時にラレング伯爵未亡人のところに奉公に出します。ルーベンスはここで芸術的な素養を見込まれ、上流階級の作法を身につけたと言われています。(奉公はわずか数ヶ月で辞めてしまいましたが・・・)
まず見習いとしてアントワープ在住の二流画家、トビアス・フェルハーヒトに弟子入りしたルーベンスはその後、アダム・フォン・ノートルのアトリエで4年間修行し、18歳になるとアントワープ一の人気画家ファン・フェーンに師事しました。
才能豊かなルーベンスはフランドルでプロとして認められ、22歳でイタリアへ渡ります。イタリアには母危篤の知らせを受けるまでの9年間滞在しました。
宮廷画家へ
その後ネーデルラント総督アルブレヒト大公、公妃イサベラの宮廷画家になったルーベンスは、32歳でイサベラ・ブラントと結婚をします。
33歳になるとアントワープ大聖堂からの依頼で、「キリスト昇架」「キリスト降架」を制作します。
「キリスト降架」はキリストが十字架から降ろされる途中を描いたもので、今までにない斬新なシーンを表現したいと、制作された作品です。
この作品は、冒頭で触れた『フランダースの犬』で少年ネロが最期に見た絵としても有名ですね。
40代に差し掛かり、相変わらず仕事に大忙しだったルーベンスですが、幼くして父を亡くした事もあり、家庭をとても大事にしており、仕事にも家庭にも同じように時間をかける良き夫、父でありました。
名声を得るまで~晩年
45歳の時、フランスの皇太后からパリに建設中のリュクサンブール宮の装飾を頼まれます。
皇太后から要求のあったテーマは、“私の華麗なる生涯”。
パリで一番素敵な肖像画を描いて欲しいというものでした。
その結果、描かれたバロックを代表する作品が『マリー・ド・メディシズのマルセイユ上陸』です。この絵は大成功し、ルーベンスの名は瞬く間に世界中に広まりました。
しかし翌年、娘クララが12歳でこの世を去り、その3年後には17年連れ添った妻イザベラも亡くなってしまいます。
ルーベンスは悲しみを隠して平静を装う事は出来ませんでしたが、同年、スペイン王フェリペ4世の外交使節として英国宮廷へと赴き、イザベラ大公妃の命を受け、マドリードに派遣されイギリスとスペインの平和交渉に貢献します。
その後、渡英したルーベンスは53歳の時に英国チャールズⅠ世よりナイトの爵位を授かるのです。
イギリスから帰国しても、大きな家に妻も娘の姿もなく、寂しさにくれるルーベンス。
寂しさも手伝い、ルーベンスは再婚をしますが、なんとそのお相手は37歳も年下の妻・イザベラの姪である16歳のエレーヌでした。
晩年は政治の世界からも引退し、1640年5月30日痛風による心臓発作で亡くなるまでルーベンスは家族と共に幸せに暮らしました。享年62歳でした。
さいごに
自身の大豪邸には、イタリアの美術品を展示して、外国からも観覧者が訪れ、100人を超える弟子を抱えて大活躍だったルーベンス。
頭も良く顔も良し、心身ともに健康で、社会的に成功しながら個人的にも幸せな生涯を送り、妻と子供達を愛し、莫大な財産を残してこの世を去りました。
何かと問題の多い画家達の中でルーベンスほど幸せな一生を送った画家はいないのかもしれません。