【コラム】大徳寺と茶道
さて、今回は茶道と密接な関係のある「大徳寺」についてお話したいと思います。
禅で有名な大徳寺は「大徳寺の茶人面」と称され、茶の湯と大徳寺の関わりはかなり深いです。
大徳寺は京都の紫野にあります。平安時代の紫野は淳和天皇の離宮紫野院がもうけられ、やがて宗峯妙超(しゅうほうみょうちょう)が大徳庵を創建し、この庵がのちの大徳寺となります。
現在は大徳寺山内に24ヶ寺の塔頭があります。
一休宗純と大徳寺
一休宗純は皆様もご存知のアニメ「一休さん」で有名なお坊さんですね!
お坊さんなのに木刀をぶら下げて堺の町を徘徊したことでも有名なのですが、「わび茶」を打ち出したことでも有名です。
一休宗純は室町時代の諸文化に与えた影響はかなり大きいと言われ、のちに第47世大徳寺住持(寺を管理する主僧)となります。
戦国時代と大徳寺
戦国時代には豊臣秀吉、蒲生氏郷、前田利家……など多くの茶人大名達が参禅しております。
茶人の中では千利休、津田宗達などが同じく貢献しておりますが、豊臣秀吉は豪華絢爛な茶室を好む一方、千利休はわび茶を好んだとされ、まったく正反対の茶の道でした。
そのため秀吉の逆鱗に触れ、利休は切腹へと追いやられていきます。大徳寺と茶の湯の関わりは、一休宗純にはじまり戦国時代に千利休がわび茶を大成し、さらに千宗恩、道安などが注目されるなど茶人の活躍が垣間見える時期でもありました。
三千家と大徳寺
利休の孫にあたる千宗旦は、わび茶をもって千家の茶の湯を興す使命を担い、禅の精神に立脚する茶道により利休のわび茶を受け継ぎました。
また千宗旦は5人の子宝に恵まれ、その中の3人が「表千家」「裏千家」「武者小路千家」のいわゆる「三千家(さんせんけ)」を興し、ここから日本の茶道は広がりをみせるのです。
江戸時代と大徳寺
第153世大徳寺住持の澤庵宗彭(たくあん そうほう)は歴史上でも一般的にも有名なお坊さんですね。
(「たくあん漬け」の親と言われていますが、諸説ありますので真偽のほどは定かではございません……。)
この方はかなり破天荒だったようで、あの剣豪・宮本武蔵の師だったとも言われています。
そんな澤庵宗彭は、なんと第153世大徳寺住持に就いて3日後に辞めてしまったという破天荒極まりないお坊さんでもありました。
大徳寺の現在
明治元年(1868年)明治政府が神仏分離令を発し、各地で寺院や仏像、経典などが破棄されてしまいました。
大徳寺も例外ではなかった為、廃寺や合寺がみられましたが、現在は大正・昭和を経て整備がなされ、塔頭や山門の建造物をはじめ美しい佇まいで甦っています。
また国宝や重要文化財の宝庫として毎年10月10日の「虫干し」には、それら所蔵品の一般公開もされていますので、この目でぜひとも拝見したいものです。
さいごに