【大阪本店:ブロンズ・彫刻買取】池田満寿夫 ブロンズ
池田満寿夫の早期
1943年旧満州国で生まれた池田は、帰国後1952年に長野県立長野北高等学校を卒業。東京藝術大学を受験するも失敗し、大学進学を断念しました。
彼は街角や酒場で似顔絵描きをしながら創作を続け、1956年頃より友人である画家・瑛九(えいきゅう)の勧めで色彩銅版画の制作に取り組みます。
1960年26歳の池田は第2回国際版画ビエンナーレ展にて、文部大臣賞を受賞して脚光を浴びました。
池田の版画作品にはドライポイントという、特殊な針を使い銅板を彫って描画する手法が用いられていました。水墨画の影響の見られる彼の線描は、審査にあたったドイツの美術評論家ヴィル・グローマンに「線による表現力に恵まれた才能」と称賛され、そこで池田の名は一躍知られることとなりました。
池田満寿夫の最盛期
1965年には日本人として初めてニューヨーク近代美術館での個展を開催。
翌1966年、32歳で第33回ベネチア・ビエンナーレ展にて、版画部門国際大賞を受賞しました。
その後、国内外で数多くの美術賞の受賞を重ねながら、池田は国際的なアーティストとしての地位を確立しました。
1977年には小説『エーゲ海に捧ぐ』により第77回芥川賞を受賞。
1979年には、同タイトルの映画を池田自らの脚本・監督によって完成。この作品はカンヌ映画祭にも出品され、日本国内では興業的な成功も収めました。
しかし当時、高い知名度と華々しい受賞歴、展覧会の人気を持ってしても、池田への国内の美術界からの評価は決して高いものではありませんでした。
そこには冒頭で述べたように、あらゆるジャンルを横断する彼の多才さへの無理解が根底にあったのでしょう。
1980年代池田はテレビのクイズ番組やバラエティ番組、CMへの出演も盛んに行いました。その際、内縁の妻であるバイオリニストの佐藤陽子と共に出演することもあり、彼がお茶の間の人気者として広く愛されていたことも、また関係したのではないでしょうか。
池田満寿夫の晩年
1983年49歳になった池田は自宅兼アトリエを構えた静岡県にて、初めて陶芸作品の制作を行いました。
決して早くはないスタートでしたが、そこから彼は一気に陶芸の魅力に傾倒します。
彼が晩年に情熱を傾けた表現活動が作陶だったのです。
版画作品では意図的に排してきた日本的なもの、仏教芸術的なものに、陶芸では池田は真っ向から挑んでいます。
59歳から着手した「般若心経シリーズ」では、般若心経を立体的に造形するという前代未聞の取り組みを、2年間に渡り1000点あまりの作品で成し遂げました。
晩年の代表作ともいえるこの大作を、池田はどのような思いで作り上げたのでしょうか。
著名な人気者でありながら、どこか謎の多い池田満寿夫の素顔に、私たちは残された作品を通して、少しでも近づけるのではないでしょうか。
さいごに
池田満寿夫の作品のご売却をお考えの方は古美術八光堂へご相談ください。
陶作などの立体作品、版画などの平面作品問わず拝見いたします。
皆様からのお問い合わせ、お待ちしております。