【大阪本店:茶道具買取】久田宗也 茶掛
久田宗也とは
久田宗也は十代久田宗悦の息子である無適斎から尋牛斎、得流斎と続いています。
おそらく久田家の中でも無適斎と尋牛斎は、自作茶杓や箱書き(道具を保証する証)等で目にする機会も多い家元かと思います。
無適斎は「無適斎日記」という書籍を残し、そこには戦後の厳しい時期から活躍していた無適斎だからこそ語ることが出来る、困窮の時代が淡々と書かれています。
その時期は菓子などが不足していたために干し柿などを代用したり、また同時に炭も不足していたので電気風炉を利用したりと、物資の面でかなりギリギリの状況でもなんとか茶の湯の継承・普及に努めようとした久田家の努力が表れていますね。
また、尋牛斎はお茶を嗜まれている方には特にご存じの方も多いかと思われます。書籍の出版への協力やテレビ出演などと多方面にも活躍し、表千家と久田流の普及と発展に尽力した人物と言われています。
父である無適斎が築いてきた戦後久田家の礎を生かし、更に書籍やテレビ等の情報ツールを駆使し、移りゆく現代社会の中にも日本の伝統である茶の湯文化を落とし込もうとした彼の姿が窺い知れますね。
表千家流久田家とは
さて、そんな久田宗也が活躍した久田家ですが、当初はかなりの波乱が続いていました。そもそも久田家は2家あり、表千家・裏千家・武者小路千家の「三千家」の遠戚として表千家の茶を号とする「高倉久田家」と、久田流を称する「両替町久田家」がありました。
四代の不及斎までは高倉久田家の1家しかありませんでしたが、その次の代に代わる際に、不及斎の次男である宗悦が半床庵を受け継ぐ事となり、そして長男の宗玄が両替町に移り、起こしたのが両替町久田家と言われています。
その後の高倉久田家も波乱続きで、七代の皓々斎宗也が亡くなったのちに次男である達蔵が受け継ぐこととなりましたが、まだ幼かった為、後見人として養子に迎えた関宗厳を八代宗利としましたが、大阪で客死してしまい、そのことで久田家は一度途絶えてしまいました。
ですが、その後に表千家七代如心斎の姻戚である住山家から住山家八代云々斎楊甫の孫を養子に迎え、九代宗与として復興。
その様な波乱の時代を乗り越え、今の十三代久田宗也の時代に結びつくのですね。
さいごに