【広島店:絵画買取】刑部人 油彩
スタートダッシュ
1906年栃木県に生まれた刑部は、幼いころから絵画を描いており、あの川端龍子にも日本画を学んでいたそうです。
東京府立一中(現在の日比谷高等学校)に在籍していた頃は、後に小説家として活躍する高見順や大蔵官僚にもなった長沼弘毅といった仲間が同期にいました。
1931年には結婚し、妻を通して洋画家の金山平三と出会い、日本各地への写生旅行に出ました。
1946年・1947年には出品作品が日展特選を受賞し、まさに順風満帆な画家人生の始まりでした。
飲み込まれた波
しかし、時代とはいつも移り行くもので、ヨーロッパで起きた「フォーヴィズム」「キュビズム」等の新しい芸術運動の波に、多くの作家が飲み込まれていきました。
刑部人も飲み込まれたその一人で、今後の作家人生において、どういった作品を描いていけばいいのかと立ち止まることになりました。
そして辿り着いた答えは「何にも流されることなく、自分が描いてきた写実をこれからも描き続けていくこと」でした。
築き上げたスタイル
自分にしか生み出せない作品を描くため、刑部人は新たな技法を取り入れます。
ペインティングナイフという、油彩画を製作するときに用いる描画材のバネがしなる動きを利用して、絵具を次々と重ねていくという独特の方法で、「自分らしさ」を築き上げていきました。
その試みは見事に成果を上げ、刑部人の名前を世間へと知らしめることに成功しました。
そして、日本国内での評価が上がり続ける状況の中、多くの画家が海外へと目を向けていったのと同じように、刑部人もいつ、海外の景色を描き始めるのだろうと、人々は思い始めました。
しかし、刑部人はそんな世間の期待とは裏腹に、こう言ったそうです。
『奈良や京都を10年以上描き続けても思うように描けないというのに、何故ヨーロッパの風景が描けるというのか。』
多くの人々をその作品で満足させてきた刑部人ですが、自身の作品には満足することなく、常に高みを目指していたことがよく分かる言葉です。
さいごに
隣家に住み、画家であった林緑敏が薔薇づくりを趣味にしていて、毎年届けられるその薔薇を好んで描いたという刑部人。
身近なものを描くことで、画家としての自身の腕を磨き、そのスタイルを保ち続けていったのかもしれません。
1978年に亡くなるその時まで、鉛筆を握りしめるかのような素振りをしていたことは有名なエピソードです。
絵画を愛し、絵画に愛された男として、今もまだ私たちの心の中に、身近な景色は描かれ続けています。