生涯を絵にささげた日本画の画聖・奥村土牛。作品の特長や代表作をご紹介
101歳で天寿をまっとうするまで、数多くの日本画家を生み出した奥村土牛(おくむらとぎゅう)。明治・大正時代に横山大観や小林古径、速水御舟等に影響を受けて制作をはじめ、その伝統的様式や技法を基本としながらもフランス印象派の新たな波を融合させたオリジナリティの高いスタイルを確立させました。
この記事では、そんな奥村土牛の生い立ちや作品の特長・評価についてご紹介します。
現代日本画の巨匠・奥村土牛の生い立ち
▲奥村土牛の生まれた東京都の街並み
梶田半古の画塾で絵画を学ぶ
奥村土牛は明治22年東京都に生まれました。画家を志していた父親のもとで10代のころから絵画に親しみ、病弱だった奥村土牛にとっては絵を描くことが唯一の楽しみでした。
16歳で梶田半古の画塾に入門。そこで生涯の師と仰ぐ存在となる小林古径(※)に出会います。写生に重きをおき、おびたたしい数のスケッチを行い、師のもとで確かな描写力を築いていきました。翌年には日本美術院主催の日本絵画展覧会に「菅公の幼時」が入選。さらに翌年には東京勧業博覧会にて「敦盛」が入選を果たしました。また、逓信省(ていしんしょう)(※)の為替貯金局統計課に勤務し、ポスターや統計図、絵葉書などの制作も担当していました。
大正から昭和期にかけて活躍した日本画家。1950年に文化勲章受章、逝去後の1957年には従三位、勲二等旭日重光章が贈られた。
(※)逓信省
かつて存在した交通・通信・電気と幅広く管轄する行政機関。現在の総務省、日本郵政、日本電信電話(NTT)の前進。
小林古径・速水御舟との出会い
大正6年に梶田半古が亡くなってからは、小林古径の自宅に2年間住み込み、指導を受けるようになります。その間、新人の登龍門であった中央美術社第5回展にて「家」が中央美術賞を受賞。翌11年から日本美術院試作展に入選を続け、12年には日本美術院研究員になりました。大正15年には、速水御舟(※)の研究会に出席するようになります。小林古径に続き、速水御舟からも多大な影響を受けました。
大正から昭和期にかけて活躍した日本画家。40歳の若さで亡くなったこと、関東大震災により作品の多くが焼失したことなどにより、作品は現存するもののみで600点ほど。
38歳にして遅咲きのデビュー
若い頃から数々の展示会で賞を受賞してきた奥村土牛ですが、美術界への本格的なデビューは38歳のとき。昭和2年に開かれた第14回再興院展に「胡瓜畑」が初入選したのがきっかけでした。その後も数々の展覧会で作品を発表。40代半ばから日本画家としての名声は高まり、100歳を超えてもなお制作に取り組みました。年齢を重ねても制作意欲は衰えず、その姿勢から晩年は「画聖」とも呼ばれました。
後進の指導にも邁進した
奥村土牛は、制作活動を行う一方で後進の指導にもあたりました。昭和10年には帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授に、19年に東京美術学校講師、23年に武蔵野美術大学講師、26年に同大学教授、24年には女子美術大学教授に就任しています。
また、近代日本画壇への貢献を讃えられ、昭和22年に日本芸術院会員に。さらに、37年には文化功労者、55年東京都名誉都民となり、37年には文化勲章を受章。日本美術院においても、33年から監事および評議員となり、34年に理事、53年からは理事長を務めました。
奥村土牛の作品の特長とは?日本画とフランス印象派を融合させた
▲奥村土牛はフランス印象派の技法を日本画に融合させた
写生をベースに伝統的日本画とフランス印象派を融合させた、独自の作品
奥村土牛は、淡い色使いと優しく暖かみのある風景画や情景画を多数制作しました。奥村土牛の特長は、写生をベースに伝統的な日本画の技法と印象派(※)の意匠を融合させた作風にあります。16歳で入門した梶田半古の画塾では、写生に重きをおいた指導が行われていました。そこで奥村土牛は多数のスケッチを制作しています。
1860年代半ばにフランスで起きた芸術運動、またはこの芸術運動の中核を担った画家達のこと。港の早朝を描いたモネの「印象・日の出」が名前の由来。対象を照らす光や空気の変化を正確にとらえた作風が特徴。以後の芸術全般に大きな影響を与えた。
そんな奥村土牛の画風に変化が現れたのは、芸術雑誌『白樺』に掲載されたフランス印象派の作品を見てからでした。彼は、その色彩感覚と遠近表現に大きな衝撃を受けました。
当時の日本美術界は、フランス印象派の波が強く押し寄せていた時代。多くの画家が、西洋の新しい写実的表現を取り入れながら伝統的に日本画の変革を模索していました。そんな中、奥村土牛はセザンヌ(※)の写生表現を極め、さらに伝統的な日本画の技法を研究することで、その向こう側に自らの個性の確立を試みたのでした。
フランスの画家。印象派のグループの一員として活動。1880年代からは印象派のグループを離れ、伝統的な絵画のルールに縛られない、独自の絵画表現を探求する。
師である小林古径からは写生の技法を、速水御舟からは構図を、横山大観(※)からは「朦朧体」のぼかし技法を、そしてセザンヌからは色彩や遠近感の表現を。これらを消化することで、奥村土牛ならではの画風が生み出されることとなりました。
明治時代から昭和初期にかけて活躍した日本画家。近代日本画壇の巨匠で、「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる線描を抑えた独特の技法を確立。1973年文化勲章受章。
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奥村土牛の作品・代表作の評価は?現代日本画の最高峰
▲奥村土牛記念美術館がある長野県佐久穂町
奥村土牛は、現代日本画の画家でも最高峰に昇りつめた伝説の画家として広く知られています。101歳でその生涯を閉じるまで、多数の絵画を制作しました。また、1962年には文化勲章を受章、1980年には東京都名誉都民にもなっていることから、画家としての域を超えた偉大な芸術家といえるでしょう。
そんな奥村土牛の作品には、国内はもとより海外にも愛好家がいます。101年という長い人生の中で長きにわたって制作活動を行なってきたことから、代表作も多数。高額評価の作品も多数存在しています。
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奥村土牛の作品紹介
・奥村土牛 彩色 「芍薬」
華やかな金彩を背景に、そこに描かれた芍薬のつぼみは今開かんとばかりに膨らむ様が描かれています。奥村土牛が愛した芍薬の花は、長野・南佐久郡にある奥村土牛美術館の庭園でも育てられており6月の開花の時期には満開の芍薬が来館者の目を楽しませています。
・奥村土牛 木版 「富士」
薄く塗りを重ねる独特な技法で描かれた富士は堂々と気高くそびえ、シンプルながらも土牛のデッサン力・表現力の巧みさを感じさせます。自然の風景を好んで描いた土牛は、晩年にはとりわけ富士を好んで描き、100歳を超えてもなお絵筆を執り、生涯のモチーフとして富士を描き続けました。
・奥村土牛 木版 「鳴門」
「土牛」の雅号は、中国の寒山詩の一説「土牛、石田を耕す(牛が荒地を根気よく耕すという意味)」から由来している通り、幾度にもわたるスケッチを重ね、その対象の姿を作品に落とし込みました。徳島・鳴門海峡の渦潮がキャンバス一面に広がり、見ている者を渦の中に引き込むかのような迫力ある作品です。
「醍醐」「牛」など代表作が多数。奥村土牛の世界
横山大観や小林古径・速水御舟等に影響を受け、その様式や技法を基本にフランス印象派の意匠を融合させた奥村土牛。今回ご紹介した作品・代表作の他、切手のデザインにも採用された「醍醐」など数々の名作を描きあげています。今日に至るまで日本国外で多くのファンを魅了しつづける彼の作品は、今後もその評価を上げていくのではないでしょうか。
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