明治の日本画家・下村観山。西洋の色彩と日本画の伝統的技法を融合
下村観山(しもむら・かんざん)は、明治期を代表する日本画家の一人です。東京美術学校では岡倉天心を師と仰ぎ、横山大観らとともに日本芸術院の立ち上げにも参加しました。やまと絵や琳派の影響を受けながら西洋の色彩も学び、近代日本画の革新に寄与し日本美術史を支えた人物です。
幼い頃から画才を発揮し、死の間際まで絵筆を取り続けた下村観山。この記事では、そんな下村観山の生涯と、作品の魅力についてご紹介します。
近代日本美術を支えた下村観山のプロフィール
▲イギリス留学中に観山が通った大英美術館
13歳にして非凡な画才を発揮していた下村観山
下村観山は、1873年4月10日、和歌山県に下村家の三男として生まれました。本名を晴三郎といいます。8歳で和歌山から東京に一家で移住し、9歳の頃に祖父の友人である藤島常興に絵を学んだことから絵画人生が始まりました。観山の画才に気づいた常興は、友人である狩野派最後の画家・狩野芳崖に託します。芳崖からは「北心斎東秀」の号を与えられ、芳崖が多忙となると親友である橋本雅邦のもとで学びます。
13歳の頃、来日していた東洋美術史家のアーネスト・フェロノサらが主催する「鑑画会」に作品を出品すると、新聞で「実に後世恐るべし」と評されて話題を呼ぶなど、幼い頃から非凡な才能を発揮していました。
1889年、東京美術学校が開校すると、観山は第1期生として入学することになります。そこで岡倉天心の教えを受けながら、同期の横山大観、2期生の菱田春草と出会い、生涯に渡り交友を深めていきます。美術学校では、やまと絵の線や色彩の研究に没頭。調和を重んじた色彩と卓越した線描による独自の画風を作り出していきました。
学校卒業後はそのまま美術学校の助教授となり、後進の育成と指導、自身の制作に励みます。「観山」の画号は、美術学校入学の頃に使い始めたとされています。
同志とともに日本美術院を設立。イギリスへ渡り西洋画の研究も
1898年、天心が東京美術学校を辞めたことをきっかけに、観山も学校を去り、大観や春草ら同志とともに美術研究団体として「日本美術院」を設立しました。
同年、日本美術院は後進の育成を目的として設立された「日本絵画協会」と第1回連合展を開催します。観山はお釈迦様が火葬される場面を描いた「闍維(じゃい)」を出品。大観の「屈原(くつげん)」とともに最高賞の銀賞を受賞します。
1901年、東京美術学校の教授として復帰するものの、その2年後には文部省の命で西洋画の研究のためイギリスに渡ります。3年ほど滞在する中で、イギリスの大英美術館や、イタリアのフィレンツェにあるウフィーツィ美術館でラファエロの作品を日本画で模写するなど、色彩の勉強を第一の目的とし、西洋画の研究を行いました。油彩で描かれたラファエロ作品の柔らかな明暗を、水彩によって見事に絹に写し取っています。
原三渓との出会い。後進の育成に励みながら、自身の芸術の頂点を極める
1913年の末、観山は天心を通じて知り合った実業家の原三渓とともに若い画家を支援するための「観山会」を組織します。三渓は観山に横浜本牧にある家を提供するなど、生涯続き支援し続けたといわれています。この年に、ボストン美術館の収集活動をしていた天心は健康状態の悪化により帰国し、亡くなってしまいます。事実上解散状態にあった日本美術院ですが、観山は天心の意志を引き継いで、大観とともに再興をはかります。このとき観山は文部省が主宰する文部省美術展覧会の審査員をしていましたが、日本美術院再興のためにその職を辞めています。翌年、天心の一周忌を期して第1回再興院展が行われました。第1回には「白狐」、第2回には「弱法師」、第3回には「春雨」と大作を発表し続け、自身の芸術の頂点を極めていきます。
1917年には皇室により日本の優秀な美術家・工芸家の保護奨励を目的とした「帝室技芸員」に任命される栄誉を得ます。
1930年、病床でも絵筆を握り、お見舞いでもらった「竹の子」を描いた作品が絶筆となりました。57年の生涯でした。
下村観山の作品の特長。古典的日本画の継承と西洋的色彩の融合
▲下村観山「百舌」
様々な日本画と西洋画を研究し、自身の精神性を盛り込んだ独自の画風を築く
下村観山の絵画人生は、多くの絵画技法の研究とともにありました。幼少の頃は狩野派の師に学び、東京美術学校ではやまと絵の技術に没頭。同志である横山大観・菱田春草とともに朦朧体開発へ取り組み、さらにはイギリスにて西洋画の色彩の研究を行います。様々な技術の研究に基づく確かな技術に加え、象徴性や夢幻性をも盛り込んだ独自の格調高い数々の作品を残しています。
大胆で装飾的な画面構成は琳派からの影響
観山の作品は、金地の使用、絵の具が乾かないうちに他の色を垂らし紙の上で混色する「たらしこみ」の技法、余白を活かした大胆な構図、反復するパターンの使用など、特に琳派から強く影響を受けていることが分かります。
さらに、古来からの技法である、描線を塗りつぶさないように線を避けた彩色方法「彫り塗り」や、輪郭線を用いず筆の側面を利用して一筆描きで印影や立体感を表す技法「付け立て」などが組み合わされているのが特長です。
下村観山の評価は?近代化の波に揺れる日本画壇の中で伝統を継承し続ける
下村観山は、幼い頃から目を見張るほどの画才を発揮していました。アーネスト・フェノロサらが主宰する「鑑画会」の出品で「年齢十三歳、橋本氏の門弟なるが、その揮毫きごうの雪景の山水は恰あたかも老練家の筆に成りたるが如く、実に後世恐るべしとて、見る人の舌を振へり」と、新聞で絶賛されるほどでした。
第1回日本美術院にて出品した「闍維」が、大観の「屈原」とともに最高賞である銀賞を受賞するなど、若き日から非常に高く評価されています。
大正期は、様々な洋画が日本に入ってきたため、日本画檀も近代化の波に揺れている時代でした。洋画に負けないように日本画の新しい表現を模索していた潮流の中でも、日本の伝統を継承する思想を持ち続け、日本古来の技術の継承に大きな役割を果たしました。
2013年には、神奈川県の横浜美術館にて大規模な展示『生誕140年記念 下村観山展』が行われ、好評を博しました。西洋画の色彩と伝統的な日本画の技術で描かれた作品は今なお多くの人々に愛され続けています。
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下村観山の代表的な作品。高い精神性に満ちた画面構成
下村観山の代表的な作品を6つご紹介します。
「松竹観音」 三幅
哲祖
百舌
富士超之龍図
弱法師(よろぼし)
1915年に行われた第2回再興院展に出品した下村観山の代表作であり、観山の作品の中で唯一重要文化財に指定されています。謡曲『弱法師』を題材に、悟りの境地に至った盲目の弱法師・俊徳丸が、落日に向かい極楽浄土を思う一場面を描いています。
総金地の背景に、主人公の俊徳丸、梅の老樹、夕陽という3つの主要なモチーフを大胆に配置した作品です。琳派の花木図のみならず、桃山・江戸初期の狩野派を中心とした屏風画の影響も感じさせます。老梅は、原三渓によって作られた日本庭園・三渓園園内の梅の木に着想を得て描いたといわれています。
白狐
岡倉天心の死から1年後の1914年、日本美術院が再興して開催された第1回再興院展に出品された作品です。天心がボストン美術館で書いたオペラの台本「The White Fox」を想起させる題材は、師への深い敬意と追悼の意を感じさせます。
反復した草木の表現と大胆な余白から琳派の伝統を、動物を主題とするところから日本画的な趣を感じさせます。淡い色彩で描かれた背景の中に、狐の白色が鮮やかなコントラストを形成する様子はある種の新鮮さがあり、伝統を感じさせながら独自の世界を表現する観山の芸術活動の頂点といえるでしょう。
小倉山
1909年の作品です。平安時代の公卿・藤原忠平が、小倉山にて和歌の着想を得る様子が描かれています。
西洋留学で洋画の色彩を学び、帰国後は西洋顔料も使用していたとされる観山。西洋の色使い、琳派の大胆な意匠と装飾性、彫り塗り・付け立てといったやまと絵の技巧がふんだんに使われており、観山の研究の集大成ともされる作品です。
まとめ
下村観山が生きた明治から大正期の日本は、多くの西洋の文化が流入し、近代化に揺れる時代でもありました。古くからの日本画の技術を踏襲しながらも、今までになかった洋画の色彩を融合した観山の作品は、近代日本画檀にとって大きな役割を果たしたに違いありません。
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